2024年10月19日・20日 聖霊降臨後第22主日
マルコ10:35~45 (新82)
10:35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 41ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。 42そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
引き続きマルコ福音書を読んでまいります。先週の物語では、イエス様は金持ちの青年に神の国について教えられていました。その後イエス様は三度目の受難予告をされます。それは「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱(ぶじょく)し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」というものでした。今までになく具体的で恐ろしい内容が語られています。そして、そのあとに記されているのが、今日の日課である「ヤコブとヨハネの願い」のエピソードです。
場面はイエス様が弟子たちを連れて十字架の待つエルサレムへと向かっておられるところです。その途中で、弟子のヤコブとヨハネが進み出て、イエス様に「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」と言ったとあります。何をしてほしいのか言ってみなさいと言われたイエス様に対し、彼らは「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と申し出ました。それはつまり、イエス様が栄光の座に着く時に、その左右に座る地位をくださいということです。イエス様が権力を手にした時に、高い地位を与えてくださいと彼らは頼んだのでありました。ヤコブとヨハネはイエス様がこれからしようとなさっていることの意味が分からず、イエス様がいつかこの世の支配者になって、自分たちもその分け前をいただけると思っていたのです。
そんな彼らに対しイエス様は「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と言われます。ともすればヤコブとヨハネの露骨さや図々しさに注意が行きがちですがこの箇所ですが、イエス様はそのことについては何も言いません。イエス様は彼らの根本的な問題がその無理解にあると見抜いておられたからです。だからイエス様はまず「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」とお答えになりました。
そしてイエス様はヤコブとヨハネに対して「このわたしが飲む杯(さかずき)を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と問いかけられます。私が飲む杯(さかずき)、私が受ける洗礼、それはイエス様の受難と死を意味していました。イエス様がこれから受け取るものは、彼らの夢見ているような栄光や権力ではありません。そうではなくて、イエス様はご自分が苦しみを受けることで、すべての人を罪から救おうとされているのです。
このイエス様の問いかけに対して二人は「できます」と答えます。彼らが迷いなくそう答えたのは、「このわたしが飲む杯」「このわたしが受ける洗礼」が何であるかをまだ理解していなかったからです。しかし「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」とイエス様が言われた通り、彼らもイエス様と同じ運命をたどることになります。ヤコブは後に十二弟子の中で最初の殉教者となり、ヨハネは十二弟子の中で唯一殉教を免れたものの、長年パトモス島に幽閉されることになりました。しかしこの時点で彼らがそのことを予想していたとは思えません。
イエス様はさらに「しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」と言われます。たとえヤコブとヨハネが今後イエス様と同じように苦難の道を歩むことになったとしても、それによって特別な報いを求めるべきではないというのです。それは神がお定めになることであって、人間が考えるべきことではないからです。
これが今日の物語の前半部分でありますが、後半部分は、ここまでの話をほかの十人の弟子たちが聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めたというところから続きます。ひとつ前の章で「だれがいちばん偉いか」と議論し合っていた彼らです(4週前の日課)。弟子たちはみな、高い地位を持つことへの関心を持っていましたし、できれば自分も偉くなりたいと思っていました。だからこそ、ヤコブとヨハネが抜け駆けしてイエス様にお願いをしたことが許せなかったのです。その章の終わりでイエス様に「互いに平和に過ごしなさい」と言ってたしなめられていた弟子たちでしたが、ここへきてまた争いが起ころうとしていました。
イエス様はそんな弟子たちをご覧になり、彼らを呼び寄せて「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」と言われます。権力を求め人を支配することを望むのは、それは異邦人がすることであって、神の民がするべきことではないとイエス様は語られるのです。それはこの世的な願いであって、弟子たちはそのような思いから遠ざかる必要がありました。
「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」とイエス様は言われます。イエスは二回目の受難予告の後にも「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と言われていました。弟子たちは三度目の受難予告の後にも同じ言葉を聞くことになります。仕えること、自分を低くすることの大切さは、イエス様が本当にお示しになりたいことだったからです。
さらにイエス様は「仕える者になりなさい」と言われたその根拠を示して「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と言われます。イエス様がこれほどまでに「仕えなさい」と言われるのは、イエス様ご自身が仕えるために来られた方であるからです。そのことは今日の第一の日課と第二の日課でも示されています。イエスは苦難の僕(しもべ)であり、弱さをまとい試練に遭われた大祭司であるのです。弟子たちは、そして私たち信仰者は、この仕えるイエス様の姿を模範としなければなりません。
もちろん仕えるということは簡単なことではありません。偉くなりたい、人に仕えられる身分になりたいと望んでいた弟子たちを見てもわかるように、自分が進んで仕えるということは本来人間が望まないことです。しかし同時に聖書が語るのは、イエス様が十字架でご自分の命を捧げられたことを知った者たちが、自然と仕える者に変えられていったというその姿です。今はこのように無理解であった弟子たちも、イエス様の死と復活の後には命がけで奉仕に精を出しました。仕える者になりなさい、という今日のイエス様の言葉がきっと弟子たちを後々まで力づけたのだと思います。
今日の聖書の物語では、高い地位を望むことを諦められない弟子たちと、ひとり受難に向かわれるイエス様との対比が描き出されていました。弟子たちならずとも人間は神様の思いを理解することができないものです。しかしイエス様は繰り返し、仕える者になりなさい、と語りかけておられます。イエス様の呼びかけを聞き、またイエス様が私たちのためにしてくださったことを思い出す時、私たちの中に奉仕の心が生まれます。人間は弱く、自己中心的な生き物です。しかしイエス様の声を聞くことで、私たちは互いに仕え合う一歩を踏み出すことができます。来週もまた続きを読んでまいりましょう。
10月19日・20日 教会の祈り
司)祈りましょう。
全能の神様。来週行われる衆議院選挙を顧みてください。私たち一人ひとりと、また政治の任を託された者たちが、愛と正義を求め、社会の平和と公正のために仕えることができますようにお導きください。
恵みの神様。四月から始まった北九州地区の四教会一牧師体制があなたによって支えられていることに感謝いたします。北九州地区の四つの教会が、これからも支え合い、祈り合って、末永く共に歩んで行くことができますように。
慈しみの神様。イエス様は弟子たちに、仕える者になりなさいと教えられました。私たちのために自ら仕え、すべてを与えてくださったイエス様にならって、私たちも日々神と隣人に仕えることができますように。
私たちの主イエス・キリストによって祈ります。
会)アーメン
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