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祝降誕

2024年12月21日・22日 主の降誕


福音書  ヨハネ1: 1~14 (新163)

1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は、初めに神と共にあった。 3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。


クリスマスおめでとうございます。いよいよ御子イエス・キリストが私たちの間にお生まれになりました。今年はクリスマス礼拝はヨハネ福音書から、クリスマス・イブ礼拝はルカ福音書から、イエス様のお生まれについて聞いてまいります。クリスマス礼拝の本日お読みしたのはヨハネ福音書の冒頭です。ヨハネ福音書は「言は肉となって、私たちの間に宿られた」と伝えています。その「言」こそがイエス・キリストであり、創造の初めからおられた神が人となってこの世に来られたというのがキリスト教の信仰です。


この「神が人になる」という考え方は、キリスト教の大きな特徴です。宗教というのはそれぞれに異なる神の概念を持っています。宗教によって色々な神様像があって、それは「人が神のレベルに達するまで天の高いところで待っている存在」であったり「預言者や天使を送って自らは人間と交わることのない存在」であったり「天の上から地上を観察していて時々地上に遊びに来る存在」であったりします。


それに対してキリスト教では「私たちのために人になってくださった神」を信じています。イエス様が人間の赤ちゃんとして生まれて、私たちと同じように生きて、人間でいることの喜びや悲しみを知ってくださったお方であるということに救いを見い出しています。イエス様は「待ってる」人でも「自分は行かずに使いを送る」人でもなく、私たちの隣に「来てくださる」お方です。それも「自分の暇つぶし」や「人間体験」のためではなくて「私たちの救いのため」に来てくださるお方です。


ではどうしてイエス様という神は、人となってこの世に来てくださったのでしょうか。それは「恵みと真理を現すため」であると聖書は伝えています。先ほどお読みした箇所に続く17節を見ますと「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」と書かれています。律法には神様の恵みと真理が完全には現れていないので、それを現すためにイエス様が来てくださったのだというのです。


これは当時の人々にとっては大変な驚きであったでしょう。イスラエルの人々は律法こそが神の愛、神の恵み、神の真理の完全な現れであると固く信じていたからです。律法の世界というのは行いの世界、因果応報の世界です。私が律法を守って正しい行いをすれば神様はそれに報いて豊かさを与えてくださる、律法を守らず誤った行いをするならば神様はそれを罰する、それこそが神の愛であると信じて生きてきました。だから立派な神殿をこしらえ、自分の一番食べたいもの、一番大事なものを神様に捧げて焼き尽くし、自分の本当の気持ちよりも律法を大切にして生きてきました。


もちろん神様はそのことを喜ばれましたが、しかし満足もされませんでした。そこに神様の恵みや真理が本当の意味では表されていないと思われたからです。なぜか。神様は律法が語るよりもはるかに豊かで、はるかに恵み深く、はるかに愛に満ちた方であるからです。律法は時にその神様の大きさを見失わせてしまいます。


神様は本当はご自分を礼拝する神殿を必要としません。人がどこにいても、神様は人と共におられるからです。神様は本当は犠牲の捧げものを必要としません。神様は人間からそんなものをいちいち巻き上げなくても生きていける無限の豊かさをお持ちだからです。神様は本当は人間が自分の気持ちを隠して律法を最優先することを望んでいません。人がご自分の前で正直であることが神様が最も喜ばれることだからです。他の誰にも言えないようなことでも、ご自分だけには正直に言ってほしいと神様は思ってくださっています。人が律法の鎧を着て、自分の正しさをアピールするよりも、人がその鎧を脱いで、神の前で自分を隠さず素直でいることが神様にとっては本来意図したことです。なぜなら神様は、ありのままの私たちをご覧になってなお私たちを愛し、赦すことができる、恵み深いお方だからです。


ですからこの日、イエス様は私たちの間に人となって生まれてきてくださいました。律法だけでは完成することのなかった神様の愛が、恵みが、豊かさが、ますます明らかにこの世に現れるためです。イエス様が歩まれた生涯、イエス様が示してくださった行い、イエス様が語ってくださった一つ一つの言葉を通して、私たちは神様の愛を知りました。私たちが心の中に、戒めに加えて愛を持つように、神様はイエス様を送ってくださったのです。


私たちはこの一年も、様々な決まりを尊重し、良い人であろうと務め、神と隣人のために尽くしてきました。神様が私たちにそういう戒めを与えてくださったからです。その戒めのおかげで、私たちはなんとか社会生活を送ることができています。しかし聖書が語るのは、そんな私たちに、今日神様の愛が贈られているということです。信仰者の人生は、戒めだけでは完成しないということです。戒めに加えて愛を受け取ることで、私たちは本当の意味で神様を知ることができます。私たちには律法に加えて救い主が必要です。そのために神様が用意してくださったのが、イエス様のお生まれです。


この喜びあふれるクリスマス礼拝の日に、私たちは神様の愛と豊かさを再び思い起こしましょう。それこそが私たちを本当の意味で満たすもの、最後まで私たちを力づけるものです。神様はイエス様を通して、私たちを愛に至らせてくださいます。クリスマスおめでとうございます。この喜びを共に分かち合いたいと思います。


12月21日・22日 教会の祈り

 

司)祈りましょう。

 

恵みの神様。あなたの独り子イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの礼拝に私たちを招いてくださりありがとうございます。あなたは神の豊かさと恵みをこの世に現すために、私たちにイエス様を送ってくださいました。ここに集う私たちが深い感謝の思いをもってクリスマスを祝い、信仰を新たにすることができますように。

 

全能の神様。12月14日に北九州市の飲食店で殺傷事件が発生し、二人の中学生が刺され、一人が亡くなりました。本当に残念な事件が身近で起こり、私たちは心を痛めています。被害に遭われたお二人とそのご家族、学校関係者のみなさんの上にあなたからの慰めがありますように祈ります。

 

慈しみの神様。み子イエス・キリストはこの世にお生まれになり、すべての人の隣人となられました。ことに悲しむ人々、苦しむ人々、不安と孤独の中にある人と共にいてくださいました。主よ、私たちと共にいてください。そして私たちを隣人のために用いてください。

 

私たちの主イエス・キリストによって祈ります。

会)アーメン

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