2024年12月15日 待降節第三主日
福音書 ルカ3: 7~18 (新105)
3: 7そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 8悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 9斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」 10そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。 11ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。 12徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。 13ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。 14兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 18ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
待降節の第三主日を迎えました。先週に引き続き、洗礼者ヨハネのお話を聞いてまいります。ザカリアの子ヨハネは、イエス様のお生まれを告げるしるしとして世に現れ、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。そこまでが先週のお話で、今日語られているのはそこに集まった人々とヨハネのやりとりです。
まずヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出てきた群衆に向かって神が裁きを行われる時は近いと警告します。ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」と語ります。この話を聞いていた人のほとんどはユダヤ人でしたが、イスラエルの民という神に選ばれた民族であろうと、悔い改めなければならないというのです。あなたがたが悔い改めないならば、神は自ら新しい民族を選び、最初にイスラエルに与えた約束と同じ約束を与えることがお出来になるとまで語っています。
厳しい言葉の数々ですが、ヨハネは人々を絶望させようとしてこのようなことを言ったのではありません。あるいは人々を不安にさせて何か売りつけようと思ってそういうことを言うのではありません。そうではなくて、ヨハネは「今こそ神様との関係を新しくする時である」と言いたいのです。現状に満足してなんの危機感もなければ人は変わることができません。このままではイスラエルの人々は約束の民であるということに安心して神様との関係を見直さないまま生きていくでしょう。しかしそれは預言者であるヨハネにとってもっとも悲しいこと、もっとも悔しいことでした。
なぜなら神様の愛は、群衆が思っているよりもずっと大きいということをヨハネは知っていたからです。神様はこれからイエス様を送ってくださろうとしているということをヨハネは知っていたからです。当時の人々にとって、神の愛というのはすなわち律法でした。神様は律法という素晴らしい枠をイスラエルの民にお与えくださり、その律法を守って生きていれば、神様は豊かさを返してくださる、それが神様の愛であると思っていました。しかしこれから神様はこの世にイエス様を与えてくださろうとしています。人間を律法の枠の中に入れることだけでは、神様の愛が伝えきれないからです。だから神様はイエス様を送ってくださいました。神様の愛がこの地上でより完全に、より豊かに現れるためです。
ですから洗礼者ヨハネはもう一度神様に向き直って、これから神様がしてくださることをよく見なさいと人々に語りかけます。せっかくイエス様が来られるのに、せっかく神様がこんなにも人々を顧みてくださっているのに、それに気付かないまま信仰生活を終えたのではもったいないからです。人々が律法の中にのみ神を見いだし、本当の神様の愛と救いを知らずに死んでいこうとしているからです。
ですから洗礼者ヨハネは荒れ野で叫びます。「悔い改めよ」「裁きが来る」と。あなたがたが信仰を新しくする時は今この時である、とヨハネは語っているのです。イエス様が来られるというこのまたとない機会に、神様という存在への理解を新しく大きくして、やって来られるイエス様が与えてくださるものを十分に受け取りましょうとヨハネは呼びかけています。
ルカ福音書のユニークな点は、ここから洗礼者ヨハネと群衆との質疑応答が始まるところです。他の福音書にはないくだりです。ヨハネは群衆の質問に答え、徴税人と兵士たちの個別の質問にも答えていきます。ここでヨハネは一人ひとりその人に応じて個別のアドバイスをしています。みんな一律で断食しろとか日に何回祈れとかそういうことは言いません。むしろ、それぞれの人に応じてより具体的な生活態度を指導しています。それは、洗礼者ヨハネが人々の日々の生活を大事にしていたからです。先週お話しした通り、ヨハネは人々が自分の心の中、そして日々の生活の中にイエス様が来られる道を備えることを教えた人でした。
徴税人や兵士といったイスラエルの社会で嫌われがちであった職業の人々に対しても、ヨハネは彼らに仕事を辞めろとは言いません。ヨハネにとってその人が救われるかどうかを決めるのは、その人の職業や肩書ではなく、悔い改めて神の方を向いて生きているかというその一点であるからです。しかし悔い改めたしるしとして、自分の生活の中で、民衆から搾取することや力を誇示して人々をおどしてはいけないということが言われています。
ヨハネの答えはどれも現実的なもので、人々に「違う自分になること」偉大な業を成し遂げること」を勧めるものではありません。「今の自分のままで、神と共に生きていくこと」「私の人生のうちに働く神様の力を信じること」「今のこの私を神様は見てくださっていると信じること」それがヨハネが伝えたかった生き方でした。
同じように、私たちは今の自分のままでイエス様をお迎えすることができます。私たち一人ひとりの人生に、神様の力が働いています。今日からもっとお祈りして献金して人の役に立たなくてもイエス様は来週私たちの間に生まれてきてくださいます。だから今、悔い改めが必要です。私たちはこの一年間、神様の愛を忘れて生きてこなかったでしょうか。神様には自分を幸せにする力がないかのように感じてこなかったでしょうか。人に言えないようなことをして、さすがにこんなことしたら神様も赦してはくれないと思ったことがなかったでしょうか。
しかしそれらはすべて真実ではない、とヨハネは語ります。神様の力と愛は限りなく豊かで、神様の赦しは限りなく深いからです。神の愛は律法では語りつくすことができません。そしてその語りつくせない愛をこの地上で体現するために、イエス様は私たちのところに来てくださいました。イエス様は私たちがどんなに取るに足らない者であっても、必ず私たちのところに来てくださいます。私たちがどんなにぼーっとしていても、必ず私たちを導いてくださいます。私たちがしてきたどんな悪いことやずるいことも、イエス様はご自分の恵みと慈しみで覆ってくださいます。洗礼者ヨハネはそのイエス様を迎える準備をしなさいとこの世に告げました。私たちはヨハネの声に聞き従い、神様の愛の深さを再び思い起こして、共に来週のクリスマス礼拝を迎えたいと思います。
12月15日 教会の祈り
司)祈りましょう。
全能の神様。来週はいよいよクリスマス礼拝です。年に一度の大きな喜びの時を私たちが共に祝うことができるように、私たちの信仰と体調をお守りください。小倉教会では今日、八幡教会では来週に行われる祝会・愛餐会のひと時もあなたが豊かに祝福してください。
恵みの神様。私たちの中には入院中の人、自宅で療養している人がおられます。どうかそのような人たちに癒しと平安をお与えください。そしてそのご家族とサポートしておられる医療・福祉関係者のみなさんをあなたが支え、祝福してください。
慈しみの神様。洗礼者ヨハネは私たちに悔い改めと罪の赦しを呼びかけました。私たちがこの声に答え、日々の生活を顧みて、ますます神様に心を向けてイエス様のお生まれを待つことができるようにしてください。
私たちの主イエス・キリストによって祈ります。
会)アーメン
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