2024年12月7日・12月8日 待降節第二主日
福音書 ルカ3: 1~ 6 (新105)
3: 1皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、 2アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。 3そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 4これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。
5谷はすべて埋められ、
山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
6人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
今日は待降節第二主日です。再来週のクリスマス礼拝に備えて、今日もイエス様のお生まれを待つ時を過ごしてまいります。今日の聖書の物語ではいよいよ洗礼者ヨハネが登場します。洗礼者ヨハネはイエス様の先駆者として、救い主がこれからお生まれになるということを世の中に告げ知らせた人でした。
ヨハネは祭司ザカリアの子であります。高齢の両親から奇跡的に生まれたのでした。イエス様の親戚にあたる彼は、やがて預言者となりました。神様の言葉を授かったヨハネは、自らの使命を果たすためにヨルダン川沿いの地方へと出かけます。この辺りは特に宗教的に重要な場所とは考えられておらず、そこに礼拝所のようなものがあらかじめ存在していたわけではなかったようです。ヨハネの行った活動はまったく新しいものでありました。
ヨルダン川でヨハネがしたことは洗礼でした。ヨルダン川に体を浸す儀式です。洗礼と似たような行為として、当時、神殿や会堂に入る前に儀式的に体を洗い清めるということが行われていましたが、ヨハネの洗礼は単に儀式上の清さを与えるものではありませんでした。むしろ、人々の人生そのものを新しくするものでした。さらに、これまでの儀式上の洗いが必要に応じて何度も繰り返されるものであったのに対して、ヨハネの洗礼はただ一度だけ行われました。ヨハネの洗礼は罪の赦しのための一度切りの経験であって、その一度きりの経験を通して、その人の神との関係がまったく変えられることを意味したのです。キリスト教会の洗礼は今もこのヨハネの洗礼を引き継いでいます。
聖書はヨハネの洗礼について「預言者イザヤの書に書いてあるとおりである」と語っています。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになる。」ヨハネが現れて、主の道を整える。悔い改めの洗礼によって、その道筋をまっすぐにする、ということが言われています。
興味深いのはその「道備え」が悔い改めの洗礼によって起こるということです。尊い方を迎えるにあたって、道を整備するというのは理解できることであります。古来、人々はそういう動機でいくつもの道を作り、谷を埋め丘を削ってきました。しかしイエス様が来られる時、イエス様はそういう物理的な工事を求めているわけではありません。この世の王様や将軍が道を通る時のようなパレードを求めておられるわけではないのです。
その代わり、イエス様は私たちが悔い改めを通して、心の中に、そしてそれぞれの生活の中に、イエス様が来られる場所を用意することを望んでおられます。私は神様をお迎えするに値しないという遠慮の谷を埋め、神様なんか必要ないという高ぶりの山を削り、神様よりも大事なものがあるのではないかとさ迷い歩く曲がった道をまっすぐにしておくことを求めておられるのです。
それはなぜか。イエス様はいつも私たちと共にいるためにこの世に来てくださる方だからです。私たちは救い主を迎えることを許された存在、どんな些細なことでも神様を必要としてもいい存在、本当は神様のところにまっすぐ向かっていっていい存在であるからです。だからイエス様は私たちのところに来てくださるのです。そのことを信じなさい、私が行くからその備えをしなさい、私の愛を受け取る準備をしなさい、とイエス様はヨハネを通して呼びかけてくださっています。
そうして主の道を備えることができたら「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と聖書は語ります。どんな人でもみな、神様の救いに至ることができるというのです。神様の救いは、反省して罪を償って決まりを守ることで得られるものではありません。それも大事なことですが、ヨハネが呼びかけた「悔い改め」というのは「神様と自分の関係を新しくしなさい」ということです。
私たちは反省して罪を償うことだけでは救いに至ることができません。イエス様が差し出してくださった救いを自分の救いとして受け取るためには、心の中に、イエス様が来られるということを受け取る余地が必要です。実際に、今年もクリスマスはやってきます。またイエス様が私たちの心に来てくださいます。それは私たちがこの一年間毎日毎日自分を責めて自分を罰したからでしょうか。そうではありません。イエス様が来ると決めてくださったから、イエス様があなたを救うと決めてくださったから、神様があなたを愛したいと思ってくださったからです。
それでも私たちが神様の愛を受け取れないのはなぜでしょうか。それは人間と神を心のどこかで重ね合わせているからではないでしょうか。今まで出会ってきた人間の心の狭さ、今まで出会ってきた人間のけちくささを神様との関係にも投影しているからです。確かに神様は人間と共にいてくださる方ですが、人間とは違います。神様は神様です。私たちが今まで出会ってきた誰とも違うお方、私たちが知る最も良い人よりもさらに良いお方です。私は絶対的に豊かで、限りなく心が広い、と神様は語りかけておられます。
洗礼者ヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とヨルダンの岸辺で告げました。イエス様は私たちと共にいるためにこの世に来てくださいます。イエス様と共に歩むための道を、私たちは心に備えましょう。遠慮の谷を埋め、高ぶりの山を削り、神様より以外のものを求めてさ迷い歩く曲がった道をまっすぐにいたしましょう。なぜなら神様は私たちの救いのためにイエス様をこの世に送り、イエス様は私たちを愛するためにこの世に来てくださるからです。その限りない豊かさと深い愛を受け取ることが、私たちの救いを意味するからです。
今日は待降節第二主日です。イエス様のお生まれを待つ私たちに、ついに洗礼者ヨハネというしるしがあらわれました。私たちはこのしるしをよく見て、聞き従い、そのしるしの先にある救い主の到来を楽しみに待ちたいと思います。いよいよお生まれになるイエス・キリストを待ち望み、祈りつつクリスマスまでの日々を過ごしてまいりましょう。
12月7日・8日 教会の祈り
司)祈りましょう。
全能の神様。ルーテル世界連盟を祝福してください。ルーテル世界連盟に連なる99の国、148の教会、7550万人の人々をこれからも導き、養ってください。私たちが祈り合い、支え合いながら、それぞれの国でルター派の信仰を実践していくことができますように。
恵みの神様。北九州地区の役員会を祝福してください。あなたが教会の奉仕のために召し出してくださった役員のみなさんを、いつも励まし助けてください。役員会の働きが御心にかなって行われ、教会に集う喜びを証しするものとなりますように。
慈しみの神様。イエス様は私たちに、待つことの大切さを教えられました。私たちが神様の約束を確信し、日々祈りながらイエス様のお生まれを待つことができますように。あなたの送ってくださるしるしに目を向け、御心を悟ることができますように祈ります。
私たちの主イエス・キリストによって祈ります。
会)アーメン
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