本日は信徒説教者の田村圭太さんに説教をしていただきました。田村さんの説教を掲載いたします。
2024年9月15日 聖霊降臨後第17主日
福音書 マルコ8:27~38 (新77)
8: 27イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 28弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 29そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 30するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
聖書の中には、最大級の見せ場・名所と言われる箇所がいくつもあります。本日の福音書の日課である箇所もその一つで、イエスさまの弟子ペトロが「あなたは、メシア(救い主)です」と自らの信仰を告白した後、その直後にイエスさまが初めて十字架での受難を予告され、さらにはマタイ福音書16章に記されているように「そんなことがあってはなりません」と言ってイエスさまをいさめたペトロが逆にイエスさまから叱責されてしまう、という出来事を記しています。
イエスさまは弟子たちに、ユダヤの人々がご自身のことを何だと言っているかお尋ねになった後、「では、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たち自身の認識について尋ねられます。これに対して、弟子の筆頭格であるペトロが「あなたは、メシアです」と答えます。(ちなみに、マタイ福音書16章16節には「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した、と記されています。)
ペトロのこの告白に対して、イエスさまはご自身のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められました。当時のユダヤ人はイエスさまのことを、ローマ帝国の圧政から自分たちを解放してくれる救い主だと考えていました。そのため、もし「イエスさまはメシア(救い主)だ」と人々の中で語られたら、その言葉が独り歩きして、人々はイエスさまにユダヤのローマ帝国からの解放しか願わない、イエスさまは現世御利益のために登場した、強い実力を持った救い主でしかないことになります。
しかし、イエスさまは、ユダヤの人々そして全世界の人々一人ひとりが罪を赦されて神さまとの関係を修復し、新たな命をもって生きていくために、父なる神さまからこの世に遣わされた救い主です。イエスさまが本当にメシアであることが弟子たちに理解されるのは、ご自身の十字架での受難と復活の出来事以降のことでした。ご受難の前、イエスさまが人々に捕らえられたとき、ペトロは3回も「あんな人は知らない」と言ってしまいます。そのように、自己保身に走ったがために、弟子でありながら主イエスを見捨てる行動をとってしまう弱さを捨てきれなかったペトロでした。しかし、イエスさまに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われた際に、「あなたは、メシアです」と答えたペトロの心情はイエスさまを愛する信仰に基づいたものでした。
さて、イエスさまはペトロの信仰告白に続いて、弟子たちに初めて、ご自身が十字架につけられて殺され、その三日後に復活することになっている、と語られました。31節に「ことになっている」と記されているとおり、このイエスさまのご受難は父なる神さまによる、揺るぎない確かなご計画として、御降誕の時から定められていました。32節にはイエスさまの言葉として、わざわざ「しかも、そのことをはっきりと(つまり、包み隠さず)お話しになった」と記されています。イエスさまはご自身の十字架での受難と三日目の復活によって救いの業を完成される、これが神さまのご計画、ご意志なのだということを弟子たちにしっかりとわかってほしいのです。つまり、“十字架のご受難と復活がなければメシアはない”ということです。ペトロが信仰を告白した直後、イエスさまが受難予告をされたのはこのためなのです。
しかし、イエスさまの受難予告は弟子たちにとって予想しない、まさしく爆弾発言でした。ペトロはイエスさまを弟子たちから離れた所へお連れして、いさめ始めました。(新共同訳聖書では「いさめる」とありますが、ギリシャ語の原意は「叱る」です。)このときのペトロの言葉として、マタイ福音書16章22節には、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と記されています。
ペトロにとっては、自分が信じ従っているイエスさまがそのような死に方をすることがとても受け入れられませんでした。たしかに、ペトロはイエスさまをメシア(救い主)であり生ける神の子だと告白しましたが、同時に救い主である栄光の神の子が十字架で惨たらしく死ぬことは似つかわしくない、絶対にあってはならないと思ったのです。イエスさまの十字架での受難と復活という神さまのご計画を否定することは神さまのご意思に反することですが、ペトロはそこまでは考えが至っていなかったとも思われます。
これに対して、イエスさまはペトロに次のように言われます、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
サタンは、神さまと人々とのつながりを引き離そうとする存在です。実は、神さまのご計画を否定するペトロの言動は、ペトロ自身の心底の思いによるのではなく、イエスさまを愛するペトロの思いを利用してペトロの口を使ったサタンの仕業と考えられます。だからこそ、イエスさまは決してペトロ自身の人格をとらえて叱責されたのではなく、ペトロの内に入りこんだサタンを叱責されたのです。
イエスさまが示されたメシアのイメージは、軍事力などの強い実力を持ったメシアではなく、十字架で殺された後復活される、弱々しく無力なメシアでした。同時に、現在の私たち一人ひとりのために自らを捧げて、その愛によって本当の救いや解放を実現されるメシアでした。
しかし、ペトロをはじめとする弟子たちが受難予告を聞いたとき、彼らは復活というものを理解していませんでした。だから、イエスさまがメシアであることを弟子たちが本当に理解するには、イエスさまのご受難と復活を待たなければなりませんでした。ご受難と復活を見ずに、イエスさまは何者なのか、本当にメシアなのかということを語ることができなかったのです。
イエスさまは、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて、次のように言われました、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
自分を捨てる生き方とは、自分の思いや自分中心の生き方を捨てて、救い主を自らの内に迎えて初めて行える生き方です。また、自分の十字架を背負う生き方とは、私たちが救い主を受け入れ、従うことから生まれる苦難、救い主から与えられた使命を果たすことに付随する苦難から逃げたり放棄したりせず、主がともにいてくださることを信じながら歩む生き方です。
私たちには日々の歩みの中で、さらに言えば週や月、年といった期間にわたって背負ってしまう、苦難があると思います。しかし、救い主イエスさまがいつも共にいてくださると確信していれば、イエスさまに励まされる思いを持って対処できると思います。そして、その実感の中から、私たちはいつでもペトロと同じように「主よ、あなたはメシアです」という告白を携えて、感謝をもって日々を歩めると思います。同時に、イエスさまは私たち一人ひとりがそのような歩みを続けられるよう、私たちをご自身へと招いておられるのです。
以 上
9月15日 教会の祈り
司) 祈りましょう。
天の父なる神さま。あなたが私たちを常に導き、愛と恵みと慈しみを豊かに与えてくださっていることに心から感謝いたします。どうか、私たち一人ひとりがあなたに生かされていることをいつも覚えて日々を歩んでいくことができますよう、導き支えてください。
全能の神さま。世界が平和でありますよう祈ります。私たち人間が、過去の歴史から学んだはずであるにもかかわらず、世界各地で犯している醜い争い、破壊、そして混乱をお赦しください。生命を脅かされ、心身に傷を負っている人々をかえりみてください。あなたが示された平和がこの世に実現し、すべての人々があなたの愛と平和のもとで、共に生きる者となりますようにしてください。
恵みの神さま。門司教会、小倉教会、八幡教会、直方教会のために祈ります。4つの教会は、本年4月から新たな宣教体制を作り、その中で各教会のよりよい運営と連携を考え、実践されています。どうか、あなたのみ心に従った宣教体制がすすめられますよう、支え導いてください。
そして、各教会のみなさんのお働きを祝福し、健康をお守りください。特に、森下牧師は新たな体制の中での牧会にあたって、日々懸命に働いておられます。どうぞ、牧師のお働きを祝福し、導き、お支えください。
慈しみの神さま。病気療養中の方々のために祈ります。病床にある方々があなたによる守りを信じ、受け入れ、少しでも平安な心で日々を歩むことができますように。あなたが癒しのみ手を差し伸べてくださって、不安や苦痛を和らげてください。サポートをされているご家族や医療関係者のみなさんのお働きをも、どうかお支えください。
私たちの主イエス・キリストによって祈ります。会)アーメン
Comments