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決して離れない

2024年8月24日・25日 聖霊降臨後第14主日 福音書  ヨハネ6:56~69 (新176)

6: 56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」 61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。 62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。 63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。 65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」

66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。 67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 

今日も引き続きヨハネ福音書の6章を読んでまいります。私たちがこれまで3週にわたって聞いてきた「天からのパン」のお話の最後の部分を今週は読んでいきたいと思います。これまでのところでイエス様は、ご自分が「天からのパン」であり、それを食べる者は永遠の命を得るということを明らかにされました。そしてそれを受け取るためには、ただ私を信じればよいということを言われていました。


さらにイエス様は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」とも言われています。これは聖餐式のパンとぶどう酒のことを指してこう言っておられると考えて良いでしょう。イエス様の体と血を受け取る聖餐式は、私たちの信仰を強め、私たちと神様のつながりを強めてくれます。聖餐式があることで、目に見えない神様の愛を、目で見て、手で触れ、味わうことができるからです。


このように私たちにとってはありがたいイエス様の言葉ですが、その場でこの話を聞いていた人々にとっては違いました。彼らは「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」と言ってつぶやいていたと聖書には書かれています。つまり彼らは、イエス様の言葉を文字通りに理解したのでした。わたしの血と肉を受け取りなさいと言われて混乱するのは仕方のないことかもしれませんが、彼らはイエス様につまずいてしまいます。


こうして弟子たちの多くが離れ去ったと聖書には書かれています。イエス様の言葉を受け入れられなかったのです。残った弟子はわずか十二人でした。イエス様はその十二人にこう尋ねます。「あなたがたも離れていきたいか」。離れていきたいならそうしてもよい、自分で決めなさい、と言っているかのようです。そんなイエス様に対して十二人の代表者であるペトロがこう答えました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」イエス様の問いかけに対して、残った弟子たちは見事な信仰の告白をしてみせたのです。


ペトロと残った弟子たちは、イエス様の言葉の意味が今は理解できなくても、イエス様を信じ、イエス様についていくという決断をしました。イエス様が「天からのパン」、永遠の命の与え主であるならば、イエス様のもとを離れたところでほかに行くところなどないからです。イエス様は人の理解を超えた方であることを受け入れ、ただ信じて付いて行くということを十二人の弟子たちはしました。そしてそのことをイエス様は喜ばれたのです。


私たちもまた同じようにイエス様を信じています。私たちはこれまで何週間にもわたってイエス様の言われる「永遠の命」について聞きました。そしてまた、聖餐式を通してイエス様の血と肉をいただくという不思議な宗教的実践に招かれました。イエス様はイエス様なりに言葉を尽くして説明してくださっているものと思いますが、それでも私たちにとっては、わかるような、わからないような話です。永遠の命を信じて聖餐式を受ける、その意味や理屈を私たちは完全に理解しているわけではありません。


それでも弟子たちがイエス様に付いて行くことを選んだように、私たちもまたイエス様を信じて、聖餐にあずかり続けたいと思うのです。人間は神様に比べて不完全な存在ですので、神様の与えてくださるものや神様のなさったことについて、私たちには完全に理解することはできません。それでもその与えられたもの、そのなさったことが、「きっと良いものである」と感じる気持ち、それが信仰であるからです。


永遠の命も、聖餐式も、私たちから見ればそれは神秘であって、完全に理解することはできません。しかしそれが「良いものである」という感覚を私たちは持っていて、イエス様はそれを信仰と呼んでくださっています。私たちがそれを「きっと良いものだ」と思えるのは、イエス様が命を懸けてそれを私たちに与えてくださったからです。イエス様は私たちに永遠の命を与えるためにこの世に来られ、色々と煩わしい思いをされ、そして十字架で苦しまれたのでした。イエス様がそこまでして与えてくださったものはきっと良いものである、きっと私たちに必要なものである、と私たちは考えています。


ペトロは言いました。「主よ、私たちはだれのところへ行きましょうか。」あなたのほかに私たちが行くところなどない、という意味の言葉です。今日の場面で多くの弟子たちがイエス様の元を離れましたが、ペトロはそれを無意味なことと感じました。ちょっとイエス様の言っていることがわからなかったくらいでイエス様の元を離れて、離れたところでどこへ行くのか?永遠の命を求めているなら、本当の愛を求めているなら、イエス様のほかに私たちが行くところなどないではないか?そうペトロは感じていたのです。


ですからペトロはイエス様から離れませんでした。私たちもまた、ペトロの後に続くように招かれています。神様の神秘、神様の言葉、神様が私たちに用意してくださる出来事は、私たちにとって時にわかりづらく、時に離れていきたくなるものです。しかしそれでもそこに何か意味があると感じるならば、何か良いものが隠されていると感じるならば、それは私たちの信仰です。信仰生活も色々なことがありますが、ペトロの言葉に励まされて、イエス様から離れることなく生きていきたいと思います。


 

8月24日・25日 教会の祈り

 

司)祈りましょう。

 

全能の神様。今年も8月を迎えて、教会は平和を祈り求めます。私たちが先の戦争の悲惨な体験から学び、ますます平和を求めるように導いてください。あなたによる平和で私たちを満たし、私たちを平和の器(うつわ)として用いてください。

 

恵みの神様。間もなく夏休みが終わり、新学期が始まります。学生のみなさんの学びと健康を守り、よき出会いと、よき交わりを与えてください。貧困、虐待、いじめ、病気、その他様々なことで苦しんでいる子どもたちをあなたが救い出してください。

 

慈しみの神様。入院中の人、病気療養中の人、不調が続いている人のために祈ります。どうぞ今痛みや不自由さの中にある人々に、あなたからの平安と癒しを与えてください。支えておられるご家族や医療・福祉関係者のみなさんをあなたが顧(かえり)みてください。

 

私たちの主イエス・キリストによって祈ります。

会)アーメン

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