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御子を賜る神の愛

※掲載が遅れましたことをお詫び申し上げます。


2024年3月10日 四旬節第4主日

ヨハネによる福音書3章14~21節


福音書  ヨハネ3:14~21 (新167)

14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」


四旬節の第四主日になりました。四旬節はイエス様のご受難をおぼえ、復活を待ち望む期節です。私たちはこれまで二週にわたって「私は死んで復活する」とイエス様ご自身が前もって言われていた言葉を振り返ってきました。先々週はペトロの信仰告白を受けてのイエス様の受難予告「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」という言葉を、先週はエルサレム神殿での受難予告「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」という言葉を、それぞれ聞いてきました。しかしよく考えてみると、どうしてイエス様が死ななければならないのかということについては説明がされないままでした。今週と来週の聖書箇所では、イエス様が十字架におかかりになるということの意味がいよいよ明らかにされていきます。


今日の福音書は、ヨハネ福音書の3章です。イエス様は過越祭のためにエルサレムへ行かれ、ある夜ニコデモという議員の訪問を受けます。イエス様がニコデモの質問に答えて、様々な教えを語られたのがこの場面です。ここでイエス様は旧約聖書から「青銅の蛇」の話を引用されます。これは第一朗読で読まれた民数記21章のエピソードを指しています。不信仰の罪によって蛇にかまれ、死にかけていたイスラエルの民が、モーセが神さまの言う通りに造った青銅の蛇を見上げることで助かったというお話でした。


イエス様は「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」と言われます。イエス様は旗竿の先に上げられた蛇と十字架に上げられたご自身とを重ねておられるのです。そしてイエス様は「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と言われます。罪によって死に定められていたイスラエルの民は、青銅の蛇を見上げることで命を得ました。同じようにすべての人は、十字架に上げられたイエス様を見上げることで罪を赦され、命を得ることができると教えておられるのです。


さらにイエス様は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と言われます。イエス様が「わたしは死ななければならない」と繰り返しおっしゃっているその理由がここで明らかにされるのです。イエス様が十字架におかかりになったのは、神様が人間を思う愛のためでありました。神はご自分のお創りになったこの世を愛され、人間たちを滅びから救うためには、その独り子を犠牲にすることさえなさいました。そしてそのような神様の御心に、イエス様は最後まで従われました。御子が十字架に上げられるという出来事は、神がこの世を愛された結果であるということをイエス様は教えてくださっています。これほどまでの愛が、私たちに注がれているのです。


人はその愛に応えるために、何をすればよいのでしょうか。それは「信じること」だと聖書は語っています。イエス様を信じ、救いにあずかり、光の中を生きることが神様の望んでおられることです。信じることとは、自分の力で頑張ることではありません。イスラエルの民は青銅の蛇を見上げただけで救われました。自分の力で傷を癒そうとのたうち回るのではなくて、ただ青銅の蛇を見上げたことで、つまり、神がなさってくださることに対して目を上げたことで、救われたのです。私たちも、いったん自分の力を頼りにするのをやめて、神様のなさってくださることを見上げましょう。十字架に対して目を上げ、神様の愛の深さを悟り、信仰を新たにすることが求められています。


しかしたったそれだけのことが、人間にとっては難しいことでもあります。イエス様は今日の聖書の箇所で「光の方に行きなさい、闇を好んではならない」と警告しておられます。ヨハネ福音書の著者は、人は根底から闇に支配されているので、人の行いも自動的に悪くなると考えていました。人が光を斥けるのは、神がもたらす光よりも、慣れ親しんだ闇の方が自らに近いからです。闇を愛するということは、人間にとって自然なこと、言い換えれば神様よりも今の自分自身のやり方、生き方を愛するということです。しかし私たちはその闇から目を上げて、神様のなさっていること、神がその独り子を私たちのために与えてくださったということを見なければなりません。


十字架を見上げる。それがこの時期において、そして私たちの信仰生活においてとても大事なことです。私たちはそれをついつい忘れて、自分の力で生きようとしてしまいます。それは人間の定めでありますから、仕方がないことです。しかし私たちが神様を離れて迷う時も、神様の愛はいつも私たちを追っています。パウロはこう書きました。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されました。私たちがその愛から引き離されることは決してありません。十字架のイエス様を見上げて、この一週間も過ごしてまいりましょう。


 

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