2024年8月17日・18日 聖霊降臨後第13主日
ヨハネによる福音書6章51~58節 「天からのパン」
福音書 ヨハネ6:51~58 (新176)
6: 51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
52それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。 53イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
先週に引き続きヨハネ福音書の6章を読んでまいります。先週と同じく、イエス様はご自分が「天からのパン」であり、これを食べる人は永遠の命を得るということを言われています。永遠の命というのは神様との決して消えない絆のことであり、私たちが永遠に神様の前に存在し続けるということを指しています。今日の物語では「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」は永遠の命を得るとイエス様は言われています。
これを聞いた人々はイエス様の言葉の意味が理解できませんでした。話を聞いていた人々は「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と議論し始めたと書かれています。確かに、永遠の命がもらえるからといってイエス様の腕にかじりつくわけにはいきません。イエス様の肉を食べ血を飲むということがいったい何を指しているのか、彼らにはイメージすることができませんでした。
しかし聖書を読み、教会に来ている私たちにはイエス様の言葉の本当の意味が分かります。イエス様は聖餐式のことを示してこのお話をされたのです。イエス様の肉であるパン、イエス様の血であるぶどう酒をいただくことで、私たちは強められ、永遠の命を再確認することができる、聖餐式というのはそのような儀式です。
ルカ福音書22章にはこのように書かれています。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である。』」聖餐式の度に読まれる言葉です。私たちは聖餐式の度にこのイエス様の言葉を聞き、イエス様の体と血とをいただいています。それによって得られるものは先ほど私たちが読んだ通りです。永遠の命、そして神様が私たちのうちにおられ、私たちが神様のうちにいるようになる、ということです。
聖餐式というのはこのように尊いものです。準備や片付けの手間があったり、礼拝の時間が長くなったりして、大変な時もありますが、それでもイエス様の体と血を受けるひと時は、私たちの信仰生活にとって欠かせないものです。聖餐式はイエス様自らが私たちに「こうしなさい」と言って定めてくださった儀式です。
その聖餐式を尊ぶために私たちは何をするべきでしょうか。そもそも聖書の中で「尊いもの」「聖なるもの」というのは「特別に取り分けられたもの」を指しています。例えば犠牲の捧げものは聖書の中で尊いものとされていますが、普段の食事から儀式用に取り分けられていて、夕飯に食べることはできません。神殿も聖書の中で聖なる場所とされていますが、普段の生活空間から区別されていて、誰も住むことはできません。もったいないですが「尊さ」「聖(きよ)さ」の感覚というのはそこから生まれるものです。聖書において「尊いかどうか」「聖なるものかどうか」というのは「どれほど日常から区別されているか」に依っています。
聖餐式に専用のものが多いのはこれと同じ理由です。多くの教会では聖餐式には専用のパン(ウエハース)を使います。専用のパン、専用のぶどう酒、専用のカップ、専用のお盆を使って、聖餐用具はそれ以外の用途に用いられることはありません。イエス様が定めてくださった特別な儀式のためだけに用いる特別な道具であるからです。こうすることで私たちは聖餐式の聖(きよ)さをあらわしています。
他にも色々あります。私はみなさんに落としたウエハースや余ったウエハースはごみ箱に捨てないでくださいとお願いしています。それは、そのウエハースがイエス様の体であるからです。イエス様の体はごみではありませんので、ごみ箱に捨てることはできません。最後まで丁寧に取り扱う必要があります。落としたものや余って湿気たものは私が持ち帰って土に埋めています。
またウエハースは聖餐式以外の時に食べるものでもありません。イエス様の体は永遠の命に至るために与えられたものであって、小腹を満たすために与えられたものではないからです。礼拝の中で、イエス様の言葉を聞きながら、それが与えられた意味をかみしめて食べるものです。
このように、日ごろ私がああしてください、こうしてください、と細かいことをくどくど言ってみなさんを付き合わせている背景には、そういった理由があります。聖餐式を特別なもの、聖なるものとして大事に行うための決まりごとであるからです。聖餐式というものが本来持っている聖なる価値を尊重するためにあれこれの決まりが生まれていると言ってよいでしょう。
そもそも聖餐式というのは意味が分からずに受けていると、決まりばかりが先だって、どうにも面倒に感じがちです。聖餐式のことを、ただウエハースとぶどう酒を出してきてみんなで食べる作業だと思っていると、面倒が先に立って、その辺のお皿とコップでいいだろう、余ったものはごみ箱に捨てていいだろう、ということになってきます。ただの作業であるならば少しでも楽な方がいいからです。
実際に、お当番をしてくださっている方はご存じだと思いますが、聖餐式というのはそれなりに面倒です。聖餐式の準備をしてくださる方は礼拝が始まる30分前には来て準備をしてくださっています。そして礼拝が終わったらあの小さいカップをちまちま洗って、一つずつ拭いて、また元の場所にしまってくださるわけです。余ったウエハースの処理もそうです。ごみ箱に捨てれば一瞬で終わりますが、持って帰ってスコップを持ってきて土に埋めようと思うとそれなりの手間がかかります。
それでも私たちが聖餐式の準備や片付けに時間をかけるのは、あのウエハースを最後まで大切に取り扱うのは、それがイエス様の体と血であると知っているからです。聖餐式はイエス様が私たちのために定めてくださった儀式で、私たちはあの一見単純な行為を通して見えないところで強められ、永遠の命を与えられていると聖書を通して知っているからです。聖餐式の中にイエス様が私たちにお与えになりたかったものがすべて含まれていると信仰によって理解しているからです。
ですからこの教会においても聖餐式は聖なる儀式として続けられています。イエス様が定めてくださった尊いひと時のために、担当の方がご奉仕くださり、みなさんが信仰をもってそれを受け取られています。私たちはこれからも喜んで聖餐式にあずかりましょう。聖餐式はイエス様が私たちのために与えてくださった恵みであり、聖餐式で与えられるのは、イエス様ご自身と、そして永遠の命です。そのことを再び思い起こして、今日/次回の聖餐式に備えたいと思います。
8月17日・18日 教会の祈り
司)祈りましょう。
全能の神様。連日の酷暑、地震、停電、台風によって、多くの人が不安を抱えています。どうかあなたが私たちの暮らしをお守りください。私たちが互いに助け合い、心の平安を保つことができますように導いてください。
恵みの神様。今年も8月を迎えて、教会は平和を祈り求めます。私たちが先の戦争の悲惨な体験から学び、ますます平和を求めるように導いてください。あなたによる平和で私たちを満たし、私たちを平和の器として用いてください。
慈しみの神様。入院中の人、病気療養中の人、不調が続いている人のために祈ります。あなたが私たちにお与えになる肉体は、尊いものであると同時に不完全なもので、時に私たちは病気や不調に苦しみます。どうぞ今痛みや不自由さの中にある人々に、あなたからの平安と癒しを与えてください。
私たちの主イエス・キリストによって祈ります。
会)アーメン
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