2022年3月13日 四旬節第二主日
ルカによる福音書13章31~35節
福音書 ルカ13:31~35 (新136)
13: 31ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」 32イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。 33だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。 34エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 35見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」
3月2日から教会の暦は四旬節に入りました。これから4月17日のイースターに向けて、イエス様のご受難をおぼえる期節を過ごしてまいります。先週の四旬節第一主日にはイエス様が荒れ野で誘惑を受ける場面を読みました。この時イエス様は悪魔のどんな誘惑にも耳を貸さず、ただ神様のご計画に従おうとされていましたね。
今日お読みする場面でも、同じようにイエス様は神様の御心に従っておられます。たとえそれが十字架に続く道であっても、神様の備えられた道をイエス様は迷うことなく進んでいかれるのです。これは孤独で苦しい道であって、その道を進んだところでイエス様には何の得もありません。しかしただ私たちの救いのために、イエス様はそれを引き受けてくださったのでした。
今日の聖書のお話しは、イエス様がガリラヤを離れ、各地で教えながらエルサレムに向かっておられた時の出来事です。13章22節には「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。」とあります。ここでファリサイ派の人々が何人かイエス様のもとにやって来て、ヘロデの企む殺害計画について警告します。「このままだとヘロデに殺されてしまいます、ここから逃げてください。」というのです。
なかなか有益な情報にも思えますが、ファリサイ派というのは基本的にイエス様の味方ではありません。何か裏があるはずです。まったくの好意からの通告という可能性もなくはないですが、この場面は通常、ヘロデがファリサイ派を使って自分の領土からイエス様を追い出そうとしていたものと解釈されます。ヘロデはファリサイ派を通じて殺害のおどしをかけることによってイエス様をエルサレムに近づけまいとしていたのです。「ヘロデがあなたを殺そうとしています」と吹き込めば、事を荒立てることなくイエス様を追い払うことができると考えたのでしょう。
しかしイエス様は人の心を見通すお方です。イエス様は彼らの計略を退けます。そして「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」と言われます。「あの狐」というのはヘロデ(ヘロデ・アンティパス)のことです。私はこの世の権力や人の企みに惑わされない、というイエス様のメッセージが込められています。
そしてイエス様は「三日目にすべてを終える」という言葉でご自分の死と復活を予告されます。たとえ死が待ち受けているとしても、私は自分の道を進むと宣言されているのです。先週の聖書でイエス様は「もしわたしを拝むなら、全世界の栄光はみんなあなたのものになる。」という悪魔の誘惑を退けられました。この時もイエス様は、ただ神のみに仕え、たとえそれが十字架の死であっても、神様のご計画にのみ従おうとされています。ちょっと悪魔に頭を下げれば十字架にかかることなく栄光を手にすることもできたのに、神様への従順と私たちの救いのために、イエス様はそれをなさらなかったのです。
今日の聖書でも同様のことが言われています。イエス様は「ヘロデが邪魔したからエルサレムに入れなかったわ~」と言って道を引き返すようなお方ではありません。人間はそういうことをよくしますが、しかしイエス様は違います。どんな障害も、どんな誘惑も、神様のご意思からイエス様を引き離すことはできないのです。
さらにイエス様は「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」と語られます。本来エルサレムという聖なる都に集う民は、神様から特別に恵みをいただき、神様から特別に愛されてきた人たちです。申命記や詩編には神様がそんな彼らをご自分の翼の下でかばい、守っておられるという表現が繰り返しなされています。
しかし同時にそのエルサレムの民は、これまで遣わされてきた預言者たちをことごとく退けてきました。そして今、その最後の方であるイエス様をも退けようとしています。実際にイエス様はこの場面ですでにエルサレムに入ることを妨害されているわけです。本来イエス様はエルサレムに恵みをもたらすために来られた方であり、神様に遣わされた代理人として、人々をかばい守るためにこの世に来られたお方です。エルサレムの民がイエス様を殺し、イエス様を失ってしまえば、彼らは神様の恵みを受け取れなくなってしまいます。しかしそのことを理解せず、イエス様を排斥して滅びゆこうとしているエルサレムのためにイエス様は嘆いておられるのです。
イエス様はこの話を「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」という言葉で締めくくられます。「主の名によって来られる方に、祝福があるように」というのはイエス様のエルサレム入城の際に上げられる声のことです。20章38節には「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」とあります。
つまり、彼らが再びイエス様を見るのはイエスが十字架のためにエルサレムに入られる時なのです。その時までにエルサレムの民は、そして私たちは、悔い改める必要があります。イエス様がエルサレムに入られてしまえばあとは十字架が待つのみです。イエス様の教えを直接聞くことができるうちに、悔い改めて神に立ち帰りなさいとイエス様は呼びかけておられます。イエス様はご自分の民が滅びないように、厳しい言葉で悔い改めの時が差し迫っていることを警告されているのです。
以上が今日のイエス様の言葉でした。今日の物語からは、ヘロデとファリサイ派の策略を退けて、まっすぐに神様の道を歩もうとされるイエス様のみ心が明らかになりました。これからイエス様が進まれる道は、険しくて困難な道です。人々からののしられ、鞭打たれ、最後は十字架の上で苦しみ、血を流して死んでしまうという道でした。そしてそれはすべて、私たちの救いのためでありました。私たちはこの四旬節の期間を、イエス様の受けられた苦しみと、その苦しみの中にあるイエス様の深い愛を思いながら過ごしたいと思います。また来週もこの続きを聞いてまいりましょう。
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