2024年4月13日・14日 復活節第三主日
福音書 ルカ24:36b~48 (新161)
(35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。)
24:36b イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。 39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。 41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48あなたがたはこれらのことの証人となる。
先週に引き続き、教会は復活節の期節を過ごしています。復活節は、イエス様の復活を祝い、喜びと平安のうちに過ごす期間です。先週私たちが聞いたのは、イエス様の復活を疑っていたトマスがイエス様の助けによってその疑いを乗り越えたというお話でした。今日お読みしたルカ福音書の24章においても、復活に対する疑いと、それに手を差し伸べられるイエス様の姿が描かれています。
ルカ福音書において、復活したイエス様はエマオへの道で二人の弟子たちに現れ、その後弟子たち一同に現れます。弟子たちがどこかに集まってエマオで起こったことについて話していると、イエス様が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。「平和があるように(シャローム)」というのはユダヤにおけるあいさつの言葉です。
弟子たちは復活のイエスを目の前にして恐れます。恐れおののき、亡霊を見ているのだと思いました。死人が肉体を持たない形で再び姿を現すという思想は日本も含めて多くの文化に見られるものです。ユダヤ教はこのような考え方を認めておらず、死人と交信することも禁止していますが、少なくとも民間のレベルではそのような言い伝えが存在していました。
復活に対する最初の反応が恐怖であったということはマルコ福音書の復活物語からもわかります。マルコ福音書の16章8節には「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」と記されています。起こるはずのないことが起こった時、それがたとえ喜ばしいことであったとしても、人は恐怖を感じるのでしょう。
そんな弟子たちを見てイエス様は「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。」と言われます。イエス様は自らが幽霊ではなく、肉体を持ってよみがえられたことを強調されます。そして弟子たちに対して、私に触ってよく見るようにと言われるのです。イエス様の手や足には十字架の釘跡がありました。その傷をお示しになることによって、イエス様はご自分が彼らの主、十字架で死んだ神の子イエスであることを証しされたのです。
しかしイエス様がご自分の手と足をお示しになってもなお、弟子たちはそれが復活の主であると確信できないでいました。彼らは喜びながらもまだ疑いの中にいたのです。そこでイエス様は「ここに何か食べ物があるか」と言われます。弟子たちが焼いた魚を差し出すと、イエス様はそれを弟子たちの目の前で食べました。弟子たちの目の前で魚を食べることで、自らが肉体を持ってよみがえられたことをさらに証しされたのです。
イエス様がこれらのことをされたのはなぜでしょうか。自分のお腹が減っていたからでしょうか。自分の傷を見せびらかしたかったからでしょうか。違います。そうではなくて、それは弟子たちのためでした。弟子たちが復活を信じられるようにと、イエス様はこれらのことをしてくださったのです。
その結果、初めイエス様のことを亡霊だと思っていた弟子たちは、イエス様が復活されたことを信じ、喜びました。使徒言行録によればイエス様は再び天に上げられるまで40日間にわたって弟子たちに姿を現されたとあります。その間イエス様は亡霊のようにではなく、以前とまったく変わらない姿で弟子たちに現れてくださったのです。
さらにイエス様は弟子たちに「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。」と語られます。「モーセの律法と預言者の書と詩編」とはすなわち聖書全体のことです。イスラエルが待ち望んでいたメシアがイエスであって、イエスについて書かれたことはすべて成就するということが告げられています。
そしてイエス様は聖書を悟らせるために弟子たちの心の目を開きます。弟子たちが信仰を得た瞬間です。ここへ至るまで、イエス様は弟子たちのためにさまざまなことをしてくださいました。自ら弟子たちの前に現れ、ご自分の傷跡をお見せになり、自分に触れてみるようにと語りかけ、さらに弟子たちの目の前で食事をされました。
弟子たちは信じるようになりましたが、それは弟子たちの努力と根性によるものではありません。そうではなくて、そこにイエス様の助け、神の恵みが働いていたのです。イエス様が現れ、食事することで復活を証ししてくださったこと、イエス様自らが聖書を教え、弟子たちの心の目を開いてくださったこと。こんなにたくさんのことをイエス様がしてくださって初めて、弟子たちは復活を信じ、聖書を悟ることができるようになりました。
今日の聖書物語は、信じる力は、神様の恵み、イエス様の助けがあって、初めて私たちのうちに生まれるということを語っています。そして聖書は、その助けが最初の弟子たちにだけ、ただ一度あったのだということを言っているわけではありません。そうではなくて、その同じ奇跡がこれを読む一人ひとりに起こっているということ、同じ恵みが私たち一人ひとりに注がれているということ、そのことを聖書は私たちに伝えています。私たち一人ひとりの信仰のためにも、イエス様は見えないところでたくさんのことをしてくださっているのです。
これからペンテコステまでの間、復活節の時を過ごしていきます。イエス様の復活を祝う時、聖書を読む時、教会に来る時、私たちの信仰は神様の見えない恵みによって支えられています。そのことを信じて、また来週も教会に集いたいと思います。
4月13日・14日 教会の祈り
司)祈りましょう。
恵みの神様。新学期が始まりました。児童、生徒、学生のみなさんの学びと健康を守り、よき出会いと、よき交わりを与えてください。貧困、虐待、いじめ、病気、その他様々なことで苦しんでいる子どもたちをあなたが救い出してください。
主なる神様。4月11日から八幡教会の牧師館と教会の一部の解体工事が始まりました。工事に携わってくださるみなさんの安全をあなたがどうぞお守りください。新たな牧師館の完成まで、八幡教会を導き支えてください。
全能の神様。4月20日に行われる教会の役員会を祝福してください。新体制に伴い、これからは四教会の役員会が合同で行われることになります。この困難な時にあって役員の労をとってくださっているみなさんを顧みてください。北九州地区の各教会の上にあなたの導きを祈ります。
慈しみの神様。復活の主イエスは弟子たちの前に姿を現され、彼らに信じる力を与えてくださいました。み恵みによって私たちの心の目を開き、私たちがすべてのみ業のうちに主を見いだすことができるようにしてください。
私たちの主イエス・キリストによって祈ります。
会)アーメン
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