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キリストの復活

  • Writer: jelckokura
    jelckokura
  • Mar 30, 2024
  • 7 min read

2024年3月31日 主の復活

ヨハネによる福音書20章1~18節


福音書  ヨハネ 20: 1~18 (新209)

20:1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 10それから、この弟子たちは家に帰って行った。

11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


イースターおめでとうございます。主は蘇られました。このキリスト教信仰における最大の喜びの日を、今年も教会でご一緒に迎えることができましたことを感謝いたします。今日はまた、これまでの二教会一牧師体制で迎える最後の日曜日でもあります。来週からは四教会一牧師体制が始まり、小倉教会ではテレビ礼拝、直方教会では信徒礼拝が始まっていきます。


このことは私たちにとってとても大きな変化です。役員のみなさんをはじめ、教会のみなさんが将来を見据えて慎重に選び取ってきたことの結果とはいえ、これまでにない大きな変化の時を前に、私も、そしてみなさんも、ある種のさみしさと不安に包まれていることと思います。小倉教会の歴史の中で、牧師と信徒が毎週顔を合わせることがかなわなくなる時が来るなどと、いったい誰が予想したでしょうか。この年は私たちにとっての「試練の時」であると思います。


しかしイースターというこの特別な日に、私たちに与えられた試練を思う時、そもそも教会というのはこれまでさまざまな試練を乗り越えてきたのだということに気付きます。なかでも「イエス様の十字架」つまり「キリストの死」という出来事は、信じる者にとっての最大の試練でありました。それは教会存続の危機でありました。しかしご存じのとおり教会は、それをキリストの復活によって、つまり神の力によって、乗り越えることができたのです。


聖書の物語は、イエス様は私たちの罪のため、私たちの救いのために本当に死なれたのだと語ります。私たちがこれまで四旬節の日々を通して聞いてきた通りです。そしてそのキリストの死を、はじめ人間は乗り越えられない試練として捉えました。例えばイエス様がご自分の死を予告された時、ペトロは「そんなことがあってはなりません」と反論しました。イエス様が死んでしまえば、信じる者の群れは空中分解してしまって後には何も残らなくなると、ペトロは当然のようにそう考えたからです。


イエス様が捕らえられた時、弟子たちはみんな逃げてしまいました。イエス様がいなくなれば信仰どころではない、自分たちも同じように捕らえられて殺されるだけだと恐れたからです。イエス様が十字架から降ろされた時、女性たちはユダヤ教のしきたり通りに葬りの準備をしました。イエス様が死んでしまって悲しいけれど、悲しんでいても生き返るわけではないので、現実を見てできる限りのことをしてあげたいと思ったからです。


このように、イエス様の死ははじめ、すべての終わり、完全な行き止まり、人間が打ち勝つことのできない試練であると思われていました。人間の常識からすれば死んだ人は生き返りません。イエス様が生きていてくれればあったはずの未来がすべてなくなってしまったと人々は感じました。私たちの物語は終わったのだと、当時の信仰者たちは感じたはずです。


しかし私たちは、二千年後の今も、教会はなくなっていないということを知っています。福音の前進は、信仰者たちの物語は、キリストの死によって終わりませんでした。それどころかイエス様の教えは世界中に広まって、多くの人が聖書に聞き従うようになりました。教会はキリストの死という最大の試練を乗り越えて、今も信仰を継承しています。


ではその最大の試練はどうやって克服されたでしょうか。それは主が復活されたからであると聖書は伝えています。今日私たちがここにいるのは、人間にとっての終わりを、神の全能の力が打ち砕いたからです。死という人間の最大の試練に、復活という神の最大の奇蹟が打ち勝ったからです。神にできないことは何一つないということ、神の愛から私たちを引き離すことができるものは何一つないということ。そのことがこの復活という奇蹟によって明らかにされました。


その後も教会は大小さまざまな試練を経験してきましたが、神様の力に守られて、信じる者の群れの歴史は今日まで続いています。教会がこうして営みを続けられているのは、そこにいる人間が特別優れているからであると私たちは考えていません。そうではなくて、御子を死からよみがえらせるほどの力をお持ちの方が、絶えず教会を守り、導いてくださっているからであると私たちは信じています。


そしてその同じ神の力が、これまでも、これからも、小倉教会の上に働いています。私たちがこれから経験する試練は、イエス様の十字架に比べれば取るに足りないことかもしれませんが、しかし私たちにとっては心を騒がせるのに十分なものです。みんなで一生懸命考えて一番良いと思われることを選んできたつもりですが、来週からどんな風になるのだろうと考えると、やはりどきどきしてしまいます。


しかしこの復活の日、それでも全能の神が私たちと共におられるということをもう一度胸に刻みましょう。神様はどんな時も、小倉教会と共におられます。イエス様を死からよみがえらせた全能の力をもって、これからも私たちを導いてくださいます。死さえも超えて働く神の力は、テレビ礼拝も信徒礼拝も四教会一牧師体制も超えて豊かに働きます。そのことを信じなさいと、復活の主は私たちに語り掛けておられます。


今日はイースターの礼拝です。主の復活、おめでとうございます。主の復活の日にあって、私たちの新しい門出が祝されますように、全能の主に共に願いたいと思います。

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