2024年6月22日・23日 聖霊降臨後第五主日
マルコによる福音書4章35~41節 「キリストの助け」
福音書 マルコ4:35~41 (新68)
4:35その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 36そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。 37激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。 38しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。 39イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 40イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 41弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
先週に引き続き、マルコ福音書の4章を読んでいきます。4章において、さまざまなたとえを用いて神の国について教えられたイエス様は、その日の夕方、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われます。4章2節を見るとイエス様が舟に乗って教えておられたことがわかりますが、イエス様はそのままガリラヤ湖を西から東に渡って、「湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方」(5:1)、すなわち異邦人の土地を目指されたのでした。
そういうわけで、弟子たちは群衆を後に残し、イエス様を舟に乗せたまま向こう岸へと漕ぎ出します。近年の発掘調査から、当時の舟は長さ約8m、幅約2.5mの大きさで、15人ほどの人を乗せることが可能であったことがわかっています。イエス様と12人の弟子たちを乗せるのにちょうどいい大きさです。福音書には、イエス様と弟子たちを乗せた船以外に「ほかの舟」も一緒であったと書かれています。これはイエス様を取り囲んでいた群衆の一部が舟でついてきたのでしょう。
舟というのはまた、古くから教会を象徴するモチーフでありました。直方教会の赤の聖壇布は船がデザインされていたかと思います。私たちはこの地上から神の国に向かう舟に乗り合わせている、舟は波の中、嵐の中を進む、舟は数々の困難を共に乗り越えて同じ目的地を目指す運命共同体である、それが教会である、と古来キリスト教徒たちは考えてきたのです。
そんな舟に乗り船出した一行でしたが、そこに激しい突風が起こります。舟は波をかぶって、水浸しになるほどでした。福音書の中で「湖」と書かれているのはガリラヤ湖のことですが、ガリラヤ湖の周りは高い山に囲まれていたため、そこから湖をめがけて突風が吹き下ろすことがあったそうです。なかでもこの時の風のすさまじさは際立っていて、漁師であった弟子たちもうろたえるほどでありました。
そんな危機的な状況の中、イエス様は艫(とも)の方で枕をして眠っておられたとあります。艫とは舟の後方、船尾のことですが、嵐の中にあってもイエス様は平安なご様子です。イエス様はご自分で嵐を静めることのできるお方ですし、また父なる神様を信頼しておられましたから、このように動じることなく安心しておられました。
イエス様が眠っておられたのは、イエス様が弟子たちに無関心であったからではありません。イエス様がさぼっていたからでもありません。そうではなくて、イエス様ご自身が全能であることと、父なる神様を信頼しておられることの現れでありました。しかし弟子たちにはそれが理解できません。彼らはイエス様を起こして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と騒ぎます。このままでは死んでしまうと言わんばかりです。
そこでイエス様が起き上がって風を叱り、湖に「黙れ。静まれ」と言われると、風はやみ、すっかり凪になりました。ここで注目しておきたいのが、イエス様は悪霊を追い出すのと同じようなやり方で嵐を静められたということです。つまり「黙れ」と言って叱りつけるやり方です。それは、湖や海が(新約聖書の原語であるギリシア語は湖と海を区別しません)時として「怪物のすみか」ととらえられ、人間の生命を脅かす「悪魔的な場所」と思われてきたからでありました。詩編やエレミヤ書を読むと、海にはレビヤタンと呼ばれる怪物や竜が住むと考えられていたことがわかります。深い水のある所には悪の力が潜んでいると信じられていたのです。
そして聖書は、そのような恐ろしい場所である湖や海を支配することができるのは神のみであるということを語っています。例えば今日の第一の日課であるヨブ記38章には「海は二つの扉を押し開いてほとばしり/母の胎から溢れ出た。わたしは密雲をその着物とし/濃霧をその産着としてまとわせた。/しかし、わたしはそれに限界を定め/二つの扉にかんぬきを付け/『ここまでは来てもよいが越えてはならない。/高ぶる波をここでとどめよ』と命じた。」と記されていました。湖や海は本来無秩序にほとばしるものであり、神のみがそれに命じて限界を定めることができるというのです。
嵐を静めたイエス様は弟子たちに向かって「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言われます。弟子たちの恐れは信仰の欠如のあらわれであるとイエス様は指摘されるのです。そして弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言って話し合いました。自然を従わせるということは本当に神様にしかできないこと、どんな人間にもできないことであると彼らは知っていたからです。
これまで弟子たちはイエス様のことを「先生」(38節)として見ていたのであって、「風や湖を従わせる方」すなわち神とはとらえていませんでした。しかしこの出来事によって、イエス様は神と同様、風や湖に命じてそれを支配することができるお方であることが明らかになります。それでも弟子たちはイエス様が神の子であるということを完全に理解できたわけではなく、「いったい、この方はどなたなのだろう。」と言って恐れたとあります。イエス様がどなたであるのか、弟子たちはこれから時間をかけてそのことを理解していくことになるのです。
今日の福音書の物語では、イエス様は怖がる弟子たちの前で風と湖を叱り、嵐を静められました。それによってイエス様が全能の神の子であるあるということが明らかになりました。そしてもう一つ明らかになったのは、弟子たちが「最悪の状態」「終わり」と思っていた場面は、本当は最悪でも終わりでもなかったということです。それはイエス様からすると寝ていてもいいような平和な状況であり、振り返ってみれば、恐れることはなかったのだ、ただ神に信頼していればそれでよかったのだということが明らかになります。イエス様が共におられる限り、弟子たちは守られているからです。
そしてイエス様に守られているのは弟子たちの舟だけではありません。私たちのこの教会もまた、イエス様と共に船出した一つの共同体です。神の国という向こう岸に着く日まで、時には大きな波や激しい嵐が私たちを襲うでしょう。四月からの新体制もその一つかもしれません。しかしイエス様が私たちと共におられます。私たちがもう無理だと思うような時でも、イエス様が私たちを導き、最後は必ず助けてくださいます。信じなさい、恐れることはない、寝ていてもいいくらいだ、とイエス様は語りかけてくださいます。
今日の福音書の物語で、弟子たちは誰一人欠けることなく無事に向こう岸に着きました。私たちもまた、誰一人欠けることなく神の国に着く日が来るでしょう。その日までお互いを大切にして、この世界でたった一つの北九州地区八幡/門司/小倉/直方教会という舟に乗り合わせていたいと思います。
6月22日・23日 教会の祈り
司)祈りましょう。
全能の神様。九州地方は梅雨入りを迎えました。あなたがお造りになった大地と水の恵みに感謝いたします。空も海も、動物も植物も、すべてはあなたが創造され、私たちに与えてくださったものです。被造物を大切にし、あらゆる生命と調和する生き方を祈り求めます。
恵みの神様。6月30日に行われる北九州地区合同礼拝を祝福してください。4月からの新体制のもと、4教会が集って礼拝する機会が与えられました。私たちをあなたの御前に一つにしてください。共に捧げる祈りと賛美が私たちを結びつけるものとなりますように。
慈しみの神様。教会に集う青年のみなさんを祝福してください。教会に連なる一人ひとりを恵みによって養い育て、多くのよき実を結ぶ者としてください。ことに九州教区青年会の活動をあなたが導き守ってください。
主なる神様。人生は先々まで見通せるものではなく、また、私たちの思い通りになるものでもありません。しかしあなたは私たちのことを誰よりもよくご存じです。嵐の中にあっても平安を与え、恐れを信仰に変えてください。
私たちの主イエス・キリストによって祈ります。
会)アーメン
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