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キリストの体

2024年8月10日・11日 聖霊降臨後第12主日


福音書  ヨハネ6:35, 41~51 (新175)

6: 35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」 43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。 44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 48わたしは命のパンである。 49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」


先週の平和主日を終えて今日からはまたヨハネ福音書に戻ります。今日の福音書の物語は、イエス様が「天からのまことのパン」についてお教えになる場面です。イエス様は自らを追ってカファルナウムにやってきた群衆に対して「天からのまことのパン」について語り始められます。イエス様によれば「天からのまことのパン」は物質ではなく、また人の手によるものでもありません。「天からのまことのパン」はただ神様がお与えになるもので、それによって全世界の人々が命を得るためのものです。


福音書にはそれに続いて、その話を聞いた群衆の反応が描かれています。イエス様の話を聞いた群衆はイエス様に「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と願いました。するとイエス様は「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」とお答えになります。彼らが乞い求めているものはイエス様ご自身であることがここで明かされるのです。


イエス様が命のパンであるとはどういうことでしょうか。物質としてのパンや水は、少しのあいだ飢えや渇きを癒すことができても、しばらくするとまたお腹が減ったりのどが渇いたりしてきます。しかしイエス様という命のパンは、そういうたぐいのものではありません。なぜなら、イエス様というパンは人々に永遠の命を与えるからです。


群衆はイエス様に「そのパンをいつもわたしたちにください」つまり「繰り返し与えてください」と願いましたが、イエス様という命のパンを一度受け取れば、その人は永遠に満たされます。4章ではイエス様がサマリアの女に「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言われました。同じように、イエス様が彼らの内にいることで、彼らは常に満たされることになるのです。


しかし、そのようなイエス様の招きに対して、ユダヤ人たちは否定的な反応を見せます。ヨハネ福音書の著者はイエス様に敵対的な人々のことをざっくりと「ユダヤ人」と呼んでいますが、この時登場した「ユダヤ人」はおそらくガリラヤの人々でした。彼らはガリラヤのナザレにいたイエス様一家を知っていたからです。そして彼らは「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。」と言い始めます。イエス様は近所に住んでいる普通の人間であるにも関わらず、「わたしは天から降って来た」などと主張している、おかしなことを言っている、と彼らは感じていたのです。


そんな彼らに対してイエス様は「つぶやき合うのはやめなさい」と言われます。聖書の中の「つぶやく」という言葉は「小さい声でぶつぶつ不平を言う」という行為を指します。イエス様は敵対する人々をたしなめて、なお教えを続けられます。


そしてイエス様が明かされたのは、終わりの日に人を復活させるのはわたしである、ということでした。さらに「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」とも言われます。明らかに、イエス様がここで言われている「父」とは地上の父ヨセフのことではありません。そうではなくてイエス様のまことの父、父なる神様のことです。聴衆がイエス様を「ヨセフの息子」という枠に当てはめている間は、彼らはイエス様のもとに至ることができません。イエス様のもとに人を引き寄せてくださるのは父なる神様であるからです。


そして話は「天からのパン」に戻ります。群衆は、自分たちの先祖が荒れ野で食べたマンナこそが「天からのパン」であると考えていました。しかしイエス様はそれを否定します。マンナは究極的には「天からのパン」ではない、それを食べて生き延びた者たちも最後にはみな死んだではないか、とイエス様は言うのです。そうではなくて「天からのパン」とはイエス様ご自身のことであって、それによってもたらされるのは永遠の命である、とイエス様は言われます。肉体が滅びてもなくならない何かを、イエス様は与えようとしておられるのです。


肉体が滅びてもなくならない何かとは何でしょうか。それは永遠の命です。永遠の命とは神様との決して消えない絆であり、私たちが永遠に神様の前に存在し続けるということです。神様が永遠に私を私として認識してくださるということです。イエス様という天からのパンは、人々に永遠の命を与えます。その永遠の命を与えるためにイエス様はこの世に来られ、人々がどんなに無理解であっても、不信仰であっても、イエス様はなんとかしてそれを与えようとしてくださったのです。


イエス様を信じ、こうしてみ言葉を聞いている私たちも、すでに永遠の命を受け取っています。その永遠の命は、イエス様が何としてでも私たちにお与えになりたかったもの、命をかけてお与えくださったものです。地上のものは移ろうものです。満腹するまで食べてもそのうちお腹はすきますし、物はいつか壊れますし、人はみんな死にます。でも、そういうものがみんななくなっても、神様との関係だけは永遠になくなりません。私たちが神様から忘れられることは決してありません。今日の聖書の言葉を聞いて、そのことを思い出したいと思います。


 

8月10日・11日 教会の祈り

 

司)祈りましょう。

 

全能の神様。今年も8月を迎えて、教会は平和を祈り求めます。私たち一人一人は、平和のために役に立ちたいと思いつつも、まことに力弱い者です。しかし私たちは、イエス・キリストが、私たちの平和であることを知っています。イエス様を通して、隔ての壁を超え、私たちを一つに結び合わせてください。そして、平和のために祈り、行動する力を与えてください。

 

恵みの神様。全国各地で大きな地震が発生し、多くの人が不安を抱えています。この地震で被害に遭われた方にあなたからの慰めを祈ります。私たち一人ひとりが防災意識を高め、災害による被害を少しでも減らしていくことができますように助けてください。

 

慈しみの神様。入院中の人、病気療養中の人、不調が続いている人のために祈ります。あなたが私たちにお与えになる肉体は、尊いものであると同時に不完全なもので、時に私たちは病気や不調に苦しみます。どうぞ今痛みや不自由さの中にある人々に、あなたからの平安と癒しを与えてください。

 

私たちの主イエス・キリストによって祈ります。

会)アーメン

 

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