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イエスの憐れみ

2024年7月20日・21日 聖霊降臨後第9主日

 

福音書  マルコ 6:30~34,53~56 (新72)

6: 30さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。 31イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 32そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。 33ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。 34イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

 

6: 53こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。 54一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、 55その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。 56村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

今日の聖書の物語は、十二人の弟子たちがイエス様のもとに帰って来るところから始まります。6章の前半で伝道に派遣された弟子たちが帰還し、本来ならばその後に五千人の供食のエピソード、そして湖の上を歩くエピソードが続くのですが、日課ではこれらが省略されて、ゲネサレトでのエピソードに接続しています。省略された部分については来週読んでいくことになります。今日語られるのはイエス様の教えを求める人々の姿、そして隣人の癒しのために走り回って働く人々の姿です。イエス様が来られたことでその地方の人々が一つになっていく様子が描かれています。


イエス様に派遣され、伝道に出かけていた弟子たちは、イエス様のもとに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告しました。6章13節の記述によれば彼らのつとめは「悔い改めさせるために宣教すること」「悪霊を追い出すこと」「油を塗って病人をいやすこと」であったと書かれています。イエス様は弟子たちの報告を受けて、その成果を評価することはなさいません。ですから彼らの伝道がうまくいったのかどうか、読者である私たちにはよくわからないのですが、イエス様にとっては神様のために働いたというだけで十分だったのでしょう。


イエス様は弟子たちをねぎらい、人里離れたところでしばらく休むようにと言われます。イエス様のところには出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからです。そういうわけでイエス様と弟子たちは舟に乗って、自分たちだけで過ごそうと人里離れたところに行きました。しかし彼らが出かけていくのを目にした群衆は、すべての町から彼らの行く先へ一斉に駆け付けます。その熱心さはイエス様一行より先に向こう岸に着くほどでありました。


舟から上がったイエス様は大勢の群衆を見て、いろいろなことを教え始められます。イエス様は弟子たちと一休みするために移動されたはずですが、群衆を目にして、やはり教えることにされたようです。それは、イエス様の目に彼らが「飼い主のいない羊」のように映っていたからであり、イエス様がそのことを深く憐れまれたからでした。


今日の第一の日課にあるように、古くからイスラエルの民は羊にたとえられてきました。彼らは弱い羊であり、羊飼いの保護と導きを必要としているということが繰り返し語られてきたのです。イスラエルの民が羊であるならば、羊飼いにたとえられるのは王、そして神です。王であり神であるイエス様は、教えを求めて押し寄せる大勢の群衆を見捨てることはなさいませんでした。そうして群衆はイエスの話に熱心に耳を傾け、遅くなるまでそこを立ち去りませんでした。食べることも忘れてイエスの話に聞き入っていたのです。そして、この話はイエス様が彼らに食べ物を与える話につながっていきます。


同様にイエス様が群衆を憐れまれた話として、今日はイエス様がゲネサレトに行かれた時の話が選ばれています。ゲネサレトというのは町の名前ではなく地方の名前です。(ゲネサレトはガリラヤ湖北西岸に広がる肥沃な平地で、イエス様が宣教を開始したカファルナウムもここにありました。)イエス様一行が舟から上がるとすぐに、ゲネサレトの人々はイエス様が来たと察知します。それからの人々の行動は非常に熱心です。人々はその地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めたと書かれています。イエス様がおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめたのです。


さらにイエス様がどこへ行っても、人々は病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願いました。5章に登場した出血の止まらない病気の女性がそうであったように、イエス様ご自身ではなくイエス様の服でさえも病人を癒すには十分であるという思いが彼らにはありました。それほどまでにイエス様の評判は高く、人々もまたイエス様の力を信じていたのです。そうしてイエス様は人々の願いにこたえられ、連れて来られた人はみな癒されました。


今日の聖書の箇所では、イエス様が教えられたことの具体的な内容や、イエス様が行われた癒しについての詳しいことは何も語られていません。イエス様の影響力の大きさと、群衆の熱狂的ともいえる反応を強調するために書かれた部分と言っていいでしょう。この時人々が見せたのは、素朴で、ともすれば行き過ぎた反応でした。しかし聖書は彼らのことを決して批判的に描いていません。彼らは飼い主のいない羊のようにさまよっていたのであり、だからこそイエス様の教えを必死で求めていたのです。群衆はイエス様の教えを熱心に聞き、食事の時間になってもなお、大勢の人がイエス様の教えに聞き入っていました。


しかし人々が願ったのは自分のことばかりではありません。もう一つ、今日の聖書が描いているのは隣人の癒しのためにみんなが一致団結して働く姿です。ゲネサレトの人々は「病人を床に乗せて運び」「病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った」と書かれています。病気で苦しんでいる人助けようとする人々の姿、隣人の癒しを願う人々の姿です。人々がイエス様を前にして一つになっているのです。イエス様もまた深い憐れみをもってそれに応えられ、すべての人を癒されたということが語られています。


今日の聖書の物語が伝えているのは、イエス様の憐れみ深いお姿です。道に迷い、教えを乞う人々をイエス様は見捨てませんでした。私たちが道に迷う時も、イエス様は必ず行く先を教えてくださいます。イエス様はまた、私たちの癒しを求める気持ち、苦しんでいる隣人を助けたいと思う気持ちを受け入れてくださるお方です。私たちが誰かのために祈る時、その気持ちはきっとイエス様に届いています。憐れみ深いイエス様に身をゆだね、これからもお互いに祈り合って過ごしてまいりましょう。



7月20日・21日 教会の祈り

 

司)祈りましょう。

 

全能の神様。私たちの暮らす日本では、様々な事件をきっかけに、宗教への不信感が高まることがあります。宗教による搾取や不正をあなたが戒め、信じる者の群れを健やかに保ってください。信仰を持つ人々が生きづらい社会にあっても、私たちの信仰をお守りください。

 

恵みの神様。暑い日が続いています。この厳しい暑さの中にあって、人々の健康をお守りください。私たちが自然と調和して、あなたがお創りになったこの世界の中で、健やかに生きていくことができますようにお支えください。

 

恵みの神様。北九州地区の役員会を祝福してください。あなたが教会の奉仕のために召し出してくださった役員のみなさんを、いつも励まし助けてください。役員会の働きが御心にかなって行われ、教会に集う喜びを証しするものとなりますように。

 

私たちの主イエス・キリストによって祈ります。

会)アーメン

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