2024年8月3日・4日 平和主日
福音書 ヨハネ15: 9~12 (新198)
15: 9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
今年も平和主日がやって来ました。日本福音ルーテル教会では8月の第一日曜日(もしくは任意の日曜日)を「平和主日」として定め、教会全体で平和を祈る日としています。私の担当している教会では、平和主日はいつもの日課を離れて特別な礼拝を行ってきました。昨年は『七滝の小さな男』という本から、一昨年は『小倉メモリアルクロスの記憶』という本からそれぞれお話をしました。その前の年は小倉教会の方に戦争体験のお話をしていただきました。そして今年は『ふたりの贖罪』というDVDをご紹介したいと思います。
『ふたりの贖罪』はNHKスペシャルで2016年に放送された番組です。日本人とアメリカ人、ふたりの兵士が、戦後にキリスト教の伝道者となり、人々にキリストの愛と世界平和を宣べ伝えた記録が描かれています。主人公となるのは、真珠湾攻撃の総指揮官であった淵田美津雄と日本本土への初空襲を志願したジェイコブ・ディシェイザーというふたりの人物です。
DVDは真珠湾攻撃を振り返ることから始まります。1941年12月8日、淵田美津雄海軍中佐は350機の攻撃隊を率いて真珠湾を奇襲し、アメリカの戦艦4隻を撃沈しました。淵田の作戦の成功は2300人以上の命を奪います。アジア・太平洋戦争の始まりです。淵田はこの時のことをこう振り返っています。「戦場ではたくさん殺したほうが勲章にありつける。私の青春はこの一日のためであった。」真珠湾攻撃を成功させたことは彼に大きな名誉をもたらしました。淵田は天皇に謁見することを許され、参謀に昇進します。最後は連合艦隊航空参謀にまで上り詰め、悪化する戦況の打開につとめました。
もう一人の主人公、ジェイコブ・ディシェイザーは真珠湾攻撃の知らせをラジオで聴きます。軍隊で炊事当番をしている途中、ラジオを聞いていたら、突如として真珠湾攻撃の惨劇が伝えられたのです。ラジオはこの攻撃を日本空軍によるだましうちであると伝えていました。ディシェイザーの中に、日本に対する憎しみと復讐心が生まれた瞬間でした。そうしてディシェイザーは日本本土への初の空襲作戦に志願します。爆撃主として参加した彼は名古屋に向かい、戦闘機の工場やガスの貯蔵タンクに爆撃を加えたほか、民間人にも機銃掃射を行いました。その時の気持ちを彼は「我がアメリカに対する卑劣な攻撃の報いを日本にとことん思い知らせてやる」と記しています。
しかしその後彼は日本軍の捕虜となります。彼は名古屋での作戦の後中国に不時着しましたが、そこが日本軍の占領地であったため、日本軍に捕らえられてしまったのです。同時に捕らえられた8人のうち3人が処刑され、ディシェイザーを含む5人は終身禁固刑になりました。収容所での生活はひどいものでした。不潔な独房に入れられ、食事はわずかなコメとミミズの浮いたスープ、日常的に激しい暴力にさらされました。ディシェイザーの中で日本人への憎しみはこれ以上ないほどに募っていきました。
しかしそんなディシェイザーに転機が訪れます。彼は聖書を手にしたのです。その聖書は南京で収容されていた時に日本人の看守が差し入れてくれたものでした。彼はその聖書をむさぼるように読んだといいます。そしてある一節に行き当たりました。それはルカ福音書23章34節でした。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」というイエス様の十字架上の言葉です。自分を十字架につけた人々に対してイエス様がおっしゃったとりなしの言葉でした。
このイエス様の言葉がディシェイザーを変えました。いま自分に残酷な仕打ちを与えている日本人もまた、自分たちが何をしているのかわかっていないのだと思ったのだと彼は言います。それは赦しの瞬間でした。それからというもの、彼は怒りが沸き上がるとその一節を必死で思い出し、日本人の看守たちに笑顔で挨拶をするようになりました。そして彼はこう神様に誓います。「神さま、この戦争が終ったとき、もし私にまだ生きながらえることをお許し下さいますなら、私をもう一度日本におつかわし下さい。多くの日本の人たちは、救い主のイエス・キリストを知らないでいらっしゃいますから、この人たちにイエス・キリストを宣べ伝えたいと存じます。」戦後収容所から解放されたディシェイザーは、神様との約束を果たします。彼は大学で神学を学び、宣教師となって1948年に来日したのです。1977年に帰国するまで約30年間、日本での伝道に力を尽くしました。
一方そのころ、敗戦を経験した淵田美津雄は、公職を追放されて失意の日々を送っていました。故郷の奈良に帰り、家族と共に自給自足の生活を送っていたのです。終戦によって、彼を取り巻く環境は一変していました。かつて真珠湾の英雄と呼ばれ、天皇陛下にお目にかかるほどの栄誉を受けた淵田は、戦後の世の中では「軍国主義者」「職業軍人」と呼ばれるようになります。戦争を好んで国を破滅させた悪人として、周囲の厳しい視線にさらされるようになったのです。淵田は苦しみ、周囲の人を憎みます。軍人恩給も停止され、仕事もなくお酒を飲む毎日でした。
しかしそんな淵田にも転機が訪れます。GHQの取り調べを受けるために上京した際、渋谷でアメリカ人の伝道者からある冊子を受け取ったのです。タイトルは『わたしは日本の捕虜でありました』。あのディシェイザーが書いた伝道用の小冊子でありました。淵田は渡されるまま読むと、その内容に大きな感銘をうけました。翌日さっそく聖書を買い求めた淵田は、奈良に戻ってそれを一生懸命読みました。2か月で聖書を全部読んだそうです。
淵田にとって一番心に残った聖書の箇所がありました。ルカ福音書23章34節「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」、奇しくもディシェイザーが収容所の中で出会い、日本人への憎しみを手放したのと同じ箇所でした。淵田はその時のことをこう記しています。「突如、イエスの啓示が私に閃いた。私はハッとした。『彼らをお赦しくださいという彼らの中に、お前も含まれているのだぞ』との啓示であった。」戦中、戦後と色々なことがあった自分も赦されているのだということに気づいたのです。淵田もまた、聖書のみ言葉に出会い、自らの罪を自覚し、イエス様の十字架による救いを受け入れたのでした。
その後淵田は洗礼を受け、伝道者に転身します。あのディシェイザー本人と協力して全国各地で伝道したほか、ついには宣教師となってアメリカに渡り、かつての敵国で15年間、キリストの愛と平和の大切さを人々に述べ伝えました。日本の元海軍仲間から批判を受けたり、アメリカの人に真珠湾攻撃のことで憎まれたり、色々なことがありましたが、彼は伝道の足を止めることはありませんでした。イエス様の愛と、それによってもたらされる真の平和こそが、この世界にもっとも必要なものであると固く信じていたからです。
こうして淵田美津雄とジェイコブ・ディシェイザーのふたりは、戦後の新しい世の中を、共に福音伝道者として生き抜きました。彼らの姿が教えてくれるのは、聖書の言葉こそが平和の源であり、イエス様の十字架こそが和解の源であるということです。淵田とディシェイザー、ふたりの兵士は、みことばと出会うことによって憎しみを乗り越え、イエス様の十字架に励まされてかつての敵国で伝道に励みました。イエス様の十字架がなければ、聖書がなければ、そのような素晴らしい奇跡は起こらなかったでしょう。平和、和解、愛、赦し、そのすべての源は神様にあるのです。
淵田は後年、戦争と平和について振り返ってこのように記しています。「私は軍人として、戦争もまた正義の名において平和へ至る道だと心得ていたので、なおも体をはり命をかけて戦いつづけていたのであった。軍人として祖国への忠誠だから、それはそれとしても、正義というのはイエス・キリストの尺度ではかる以外に、人間が勝手に決めるものではないのである。」軍人として戦争や正義と向き合い続けた淵田は、戦後、キリスト教との出会いを通して、新しい正義についての価値観を持つに至ったのでした。私たちもこの言葉を受け取って、今日皆で平和を祈りたいと思います。
NHKエンタープライズ『NHKスペシャル ふたりの贖罪 日本とアメリカ憎しみを越えて』〔DVD〕
淵田美津雄著、中田整一編/解説『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』(講談社、2007年)
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