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すべてを捧げる

2024年11月10日 聖霊降臨後第二十五主日


福音書  マルコ12:38~44 (新88)

12:38イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、 39会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、 40また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

41イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 42ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 43イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 44皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 

先週八幡のみなさんは岩切先生とご一緒に聖霊降臨後第二十四主日の礼拝を過ごされたことと思います。いかがでしたでしょうか。小倉と直方は全聖徒主日・召天者記念礼拝でした。お疲れさまでした。今日の日課はマルコ福音書の12章です。八幡のみなさんが先週聞かれた「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というお話の続きになります。この時イエス様はエルサレム神殿におられて、その境内で教え、人々の様子を見ておられたのでした。


今日の物語はイエス様がその神殿の、特に賽銭箱の向かいに座っておられたというところから始まります。群衆がそれにお金を入れる様子を見るためです。賽銭箱のところには次々と人が来て、大なり小なりお金を入れていきます、そんな中でイエス様が目を留められたのは一人の貧しいやもめの姿でありました。(やもめというのは、夫を亡くした女性のことです。やもめは旧約聖書の時代から孤児、寄留者と共に社会的弱者とみなされ、特別な保護を必要とするとされた存在でした。)


彼女は賽銭箱の前に来ると、自分の持っていた1クァドランス(約150円)をその中に入れ、神様に捧げました。エルサレム神殿の賽銭箱は私たちがイメージする神社のお賽銭箱とはちょっと違います。それは金属で作られていて、上向きのラッパのように、入れるところは広くて、下がくびれた形をしています。硬貨を入れるたびに音がするので(まだこの時代に紙幣はありません)、誰がどのくらい献金したかということが周囲の人になんとなくわかる形になっていました。


そんな中で彼女の献金の時に響いたのは、ひときわ小さな音だったでしょう。1クァドランスは約150円、ほんの少しのお金です。それなのにどうしてイエス様はこの行為に注目されたのでしょうか。それは、この1クァドランスが「彼女の持っているものすべて」「生活費の全部」であったことをイエス様が見抜いておられたからでした。そしてイエス様は弟子たちを呼び寄せてこのように言われます。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」彼女こそが信仰者たちのお手本であるとイエス様はご自分の弟子たちに教えられたのです。


これは弟子たちと当時の人々にとって驚くべき教えでした。私たちはキリスト教の価値観の中に生きていますので「貧しくあるべし」みたいな反対方向のプレッシャーをどこかに持っていますが、昔の人というのはそうではありません。豊かであればあるほど、満たされていればいるほど、その人は神様に愛されている、そしてまた豊かであるほど神と隣人を深く愛することができると皆当たり前のように思っていたのです。


イエス様は「皆は有り余る中から入れたが…」と言われましたが、有り余る中から入れることは悪いことではありません。むしろ当時の人々にとってはそれこそが「理想の生き方」「人として目指すべき姿」でありました。神様から恵みをいただいて有り余るほどに受け、そしてその豊かさを自分が独占するのではなくて、喜んで神様に捧げ、気前よく人々に分け与える…誰もが「そんな風に生きたい」「そうならなければ自分は一人前ではない」「社会に存在する価値がない」と思っていた時代でありました。


しかしイエス様は「そうではない人たち」に注目されます。1クァドランスを捧げた貧しいやもめに目を留められ、この人のしたことこそが神様の喜ばれることだとおっしゃるのです。イエス様はこの貧しい女性がすべてを捧げ、あとのことは神様にお委ねしたその姿を認めてほめてくださったのでした。そして弟子たちとすべての人に対して、あなたがたもそうなりなさい、それでよいのだ、と教えてくださったのです。


イエス様にとって神様への捧げものは、お金持ちになってからするものではありません。有名になってからするものでも、義務を果たして家族を養えるようになってからするものでもありません。なぜか。そもそも神様は私たちにそんなことを求めていないからです。人間はそれを求めます。そういう自分でなければ居場所がなくて恥ずかしいとどこかで思っています。もし自分が賽銭箱の前に立ち、有り余る中からたくさんのものを捧げて、大きな音を響かせることができれば、神様はこんな自分であっても少しは喜んでくださるのではないか?少しは自分で自分を認めることができるのではないか?そう思うのが聖書の時代から変わらない私たちの姿です。


しかし神様はそういう目で私たちを見ていません。神様が求めておられるのは、私たちが偉くなることでも責任を果たすことでも人の役に立つことでもありません。人間からそんなものを巻き上げなくても神様は生きていけるからです。そうではなくて、神様が最も喜ばれるのは、私たちが神様を信じることです。信じるとはつまり、神様を頼るということです。


貧しいやもめはどうして生活費の全部を賽銭箱に入れることができたのでしょうか。それは彼女が神様に信頼していたからです。その150円がなくても神様は私を生かしてくださる、たぶんその辺の誰かが私を助けてくれる、と思うことができたからです。たとえお金持ちじゃなくても、たとえ人の世話になるような立場であっても、神様は私のしたことを喜んで、頼る私に応えてくださると思うことができたからです。そして神様が私たちに望んでおられるのは、まさにそのようなそういう在り方、つまりは神に信頼し、人に信頼して、まるで神の国にいるようにこの世を生きることです。


イエス様は、神様を喜ばせるために今から立派な人になる必要はないと私たちに教えておられます。今の自分のままで神様に頼ること、何もない自分でも気にしないこと、すべてを神様に委ねること、それこそが神様を最も喜ばせることであるとイエス様は教えてくださっているのです。


今日は「やもめの献金」の物語を聞きました。物語の中でイエス様は、神様に信頼して、すべてを捧げても平気でいるやもめの姿を喜ばれました。神様は人がご自分を頼りにすることを何よりも喜ばれるお方です。神様は与えても与えてもなお与えられるほど、限りなく豊かな方であるからです。私の限りない豊かさ、私の限りない愛、私の限りない力、これに気づいて頼ってほしいと神様は私たちに対していつも思ってくださっているのです。その上で人の役に立ちたいと願うなら、きっと神様はそれを応援してくださるでしょう。


今日私たちは共に神様を頼ってみ前に進み、安心して神様に自分のすべてを捧げたいと思います。みなさまの一週間が祈りと平安に満ちたものでありますように願っています。


 

11月10日 教会の祈り

 

司)祈りましょう。

 

全能の神様。宗教改革主日礼拝、召天者記念礼拝、岩切先生が来られての礼拝が無事に終わりましたことを感謝いたします。この期間に教会を訪ねてくださったたくさんの方々の上に、あなたのお守りがありますように祈ります。

 

恵みの神様。日に日に寒さが増してきました。冬に向かうこの季節にあって、私たちの体調をお守りください。特に、入院中の方、病気療養中の方、お一人暮らしの方が無事に過ごされますようにお祈りします。

 

慈しみの神様。今週行われる定例役員会、ライブ配信小委員会、教区伝道部長との懇談会を顧みてください。それぞれの会議が実りあるものとなるように導き、これからの北九州地区の歩みが御心にかなったものとなりますようにお守りください。

 

私たちの主イエス・キリストによって祈ります。

会)アーメン

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