2024年6月8日・9日 聖霊降臨後第三主日
福音書 マルコ3:20~35 (新66)
3:20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。 29しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
31イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 32大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 33イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 34周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 35神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
今日の福音書の日課はマルコ福音書3章です。洗礼者ヨハネから洗礼を受け、ガリラヤで伝道を始められたイエス様は、弟子たちを招き、多くの病人を癒されました。イエス様のしておられることを聞いて、おびただしい群衆がイエス様に従ったとあります。この場面でも、イエス様が家におられることを知った群衆がそこに押し寄せ、病気を癒してもらい悪霊を追い出してもらおうとしたので、イエス様と弟子たちは食事をする暇もないほどでした。
そこへやって来たのがイエス様の身内の人たちです。「あの男は気が変になっている」と聞いてイエス様を取り押さえようとやって来ます。口語訳では「気が狂ったと思ったからである」と訳されています。新共同訳で「取り押さえる」と訳されているクラテーサイというギリシア語は「捕える」「逮捕する」という意味を持つ言葉です。まるでイエス様が悪いことをしているので、それをやめさせようとしているかのようです。
エルサレムから下ってきた律法学者たちもそれに加わります。イエス様のことを「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言い、身内の人たちに味方しました。「ベルゼブル」は異教の神バアル・ゼブルに由来する名で、サタンの別名と言われています。ベルゼブルは悪霊の頭であるので、イエス様はその力を使って悪霊を追い出していると彼らは考えたのです。
イエス様は、このようにご自分をサタン扱いする人々に対して、強い言葉で警告されます。「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」と言われるのです。ここで言われている「人の子」というのは人間全般のことで、神様は恵み深いお方であるので、人間の犯す罪は基本的にはすべて赦していただけるということが明らかになります。しかし神である聖霊を冒涜するという罪は非常に重いとイエス様は教えられます。イエス様の働きは聖霊による働きであったのにも関わらず、人々と律法学者たちはそれをサタンの力、汚れた霊の仕業であると断言しました。そのような冒涜は赦されるものではなく、重大な過ちであるとイエス様は指摘されるのです。
このような教えは伝統的なものであり、イエス様が新しく言い出したことではありません。民数記15章には、モーセが罪を犯した際の贖罪の献げ物について人々に説明する場面が描かれています。そこでモーセが告げるのは、たいていの罪は規定の献げ物をすれば赦されるが、「主を冒涜する者」「主の言葉を侮った者」が贖罪をすることは不可能で、その者は民の中から絶たれる(死ななければならない)ということです。イエス様は律法学者たちをその場で罪に定められたわけではありませんが、しかし彼らが自分の犯している重大な過ちに気づくようにと、これらのことを告げられたのです。
そこへイエス様のお母さんと兄弟たちがやって来ます。マルコ福音書には「イエスの父」は登場しません。6章でイエス様は「マリアの息子」と呼ばれています。同じく6章の記述によれば、イエス様にはヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンという名前の兄弟と、名前はわかりませんが複数の姉妹がいたようです。家族はイエス様のいる家にやって来ましたが、中に入ろうとはせず、外に立っています。イエス様は家の中に座って大勢の人に教えられていましたが、入ってその話を聞く気はなかったようです。外から人をやってイエス様を呼ばせました。
その様子を知ったイエス様はこのように言われます。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」イエス様はこの状況を利用して、信仰による相互のつながりに、私たちの目を向けさせようとしておられます。イエス様の身内の人たちはイエス様を取り押さえようとしました。律法学者たちはイエス様を冒涜しました。イエス様の家族はイエス様の話を聞こうとしませんでした。その上でイエス様は、ご自分の話を聞こうと座っていた人々に対して「あなたがたがわたしの家族だ」と言われています。イエス様は神の子としての使命を何よりも優先され、これからは信仰の絆があるところが私の居場所であると言われるのです。
ですから私たちがイエス様の言葉を求める時、私たちはイエスの家族にしていただくことができます。もちろん血縁による家族関係は大切なものですが、イエス様のなさったことを見、イエス様の言葉を聞くことによって生じた神様との関係は、他の何かと比べることができないような尊い絆です。イエス様の話に耳を傾ける時、私たちはイエス様の兄弟、姉妹、母と呼んでいただくことができます。これから続く聖霊降臨後の期節も、イエス様の言葉を聞きつつ、神の家族としてご一緒に歩んでまいりたいと思います。
6月8日・9日 教会の祈り
司)祈りましょう。
全能の神様。いま北九州地区の教会は変化の時を迎えています。それぞれに歴史も文化も違う四つの教会が、あなたにあって支え合い、祈り合うことができますように。また、この困難な時期にあって役員の労をとってくださっているみなさんをあなたが顧みてくださいますように祈ります。
恵みの神様。心や体に病を負っている人、入院中の人、施設に入っておられる人のために祈ります。そのような人たちをあなたが御手のうちにお守りください。また、支えておられるご家族やスタッフのみなさんをあなたが顧みてください。
慈しみ深い神様。イエス様は「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」と語られました。私たちの罪が赦されますように。私たちを日々新しくして、御心に従って歩ませてください。イエス様の言葉に耳を傾け、静かに祈る時間を与えてください。
私たちの主イエス・キリストによって祈ります。
会)アーメン
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