2022年8月21日 聖霊降臨後第十一主日
ルカによる福音書13章10~17節
福音書 ルカ13:10~17 (新134)
13: 10安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。 11そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。 12イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、 13その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。 14ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」 15しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。 16この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」 17こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
イエス様はガリラヤを離れ、エルサレムに向かって旅をしておられます。旅の途中、安息日になったのでイエス様は会堂で教えておられました。そこで起こった出来事が今日の福音書の物語です。イエス様が教えておられた会堂にひとりの女性がいました。聖書は彼女について「十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。」と伝えています。
聖書の時代、人間には治すことのできない病気や、人間には解決することのできない困りごとは悪霊のしわざであると考えられていました。この女性の病気は現代で言うところの「脊柱後弯症」であったとも言われていますが、脊柱後弯症は手術をもってしか治療することのできない病気ですので、当時の人々からすると治らない病気、悪霊の引き起こす病気であったわけです。
イエス様は会堂の中に彼女の姿を見つけ、ご自分のもとに呼び寄せます。会堂は成人男性のための場所でありましたから、彼女は会堂の隅から、中心で教えておられたイエス様のところまで、勇気をもって進み出たことでしょう。イエス様は「婦人よ、病気は治った」と言い、彼女の上に手を置かれます。すると、女性の腰はたちどころにまっすぐになり、彼女は神を賛美しました。すばらしい奇跡を前に、会堂は喜びに包まれました。
しかしそれに腹を立てた人物がいたと書かれています。会堂長です。会堂は会堂を監督する責任者で、礼拝や建物の管理運営、聖書の朗読者や説教者の決定という重要な役割を担っていました。その会堂長が、イエス様が安息日に病人を癒されたことに腹を立て、群衆に「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」と言ったのです。
確かに、安息日の律法が守られるように指導するのは会堂長の責務です。安息日とはユダヤ教の決まりの一つで、神様が天地創造のあと七日目に休まれたことから、週の七日目の日を聖なる日と定めるものです。安息日にはいかなる仕事もしてはならないと定められており、家事を含む一切の労働が禁止されています。その代わりに安息日に神を礼拝し、神を賛美して過ごすことになっていました。
安息日にしてもよいこととしてはいけないことについては厳密な決まりがあります。医療行為が許可されているのは命に関わる場合と出産の場合のみでありました。そのことを考えると、イエス様の行った癒しは確かに安息日の掟に反しています。しかし腰の曲がった女性が18年間もの間病気に苦しんでいたのもまた事実です。礼拝以外何もしてはいけないという安息日にあっても、イエス様は彼女の苦しみを見過ごされませんでした。イエス様は病気で過ごす一日がどんなに苦しいかご存じでしたので、また明日来ればいい今日は帰りなさいとはおっしゃらなかったのです。
イエス様は会堂長の反応に対し、彼を「偽善者」と呼び、「あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。」と言われます。実際、安息日であっても家畜に水を飲ませることは許可されていました。(厳密に言えば安息日に紐を「解くこと」「結ぶこと」は律法違反でしたが、水飲み場に連れて行くために家畜の紐を「解くこと」と「結ぶこと」はその例外でした。)
さらにイエス様は「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」と言われます。サタン(悪魔)は悪霊の親玉ですので、この女性は悪霊を通して18年間サタンの支配下にあったということです。(神様は6日働いて1日休むけど、サタンは18年間休まず働いてるんですねえ…。)
この言葉を通してイエス様は、あなたがたは安息日に家畜が渇かないように配慮するのに、安息日にアブラハムの娘(人間であり、イスラエルの民として神に大切にされる存在)が癒されることに抗議するのかと指摘しておられます。聖書には「アブラハムの息子」「アブラハムの子孫」という慣用表現が存在し、それは「生粋のユダヤ人」「神の恩寵を受け継ぐべき存在」であることを意味しています。そして彼女もその一員であるということが「アブラハムの娘」という非常に珍しい表現によって言われているのです。(当時、女性は民族を構成する人数に入っていなかったので「アブラハムの息子」という表現はあっても「アブラハムの娘」という表現はありませんでした。この「アブラハムの娘」という言葉からもイエス様の大胆さと恵み深さがうかがえます。)
彼女はアブラハムの娘、神様から特別な恵みをいただいているイスラエルの民の一員ではないか、というイエス様の呼びかけは、安息日が本来何のためにあるのかということを聞く人に思い出させます。安息日は、神様が私たちにしてくださったすべてのことを喜び、神様に感謝する日、仕事の手を止めて自分の生活を離れ、全力で神様を礼拝する日であったはずです。そうであるならば、この日に病気が癒され、悪魔の支配が去ったことは喜ばしいこと、神様の栄光をたたえる安息日にふさわしいことであるのです。
物語は「反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。」という言葉で締めくくられます。イエス様の行動は、群衆にとっては神様の力を知らしめる喜ばしい出来事となり、会堂長と反対者たちにとっては悔い改めの呼びかけとなりました。私たちもこの日、しばし日常を離れ、神様に心を向ける時を過ごしています。安息日にするべきことは、自分を見ることでも、他人を見ることでもありません。ただ神様を見ることです。週に一度与えられたこの時を、喜びと感謝あふれるひと時として過ごしてまいりたいと思います。
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