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上席と末席

2022年8月28日 聖霊降臨後第十二主日

ルカによる福音書14章1節と7~14節


福音書  ルカ14: 1,7~14 (新136)

14: 1安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。


7イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。 8「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、 9あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。 10招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。 11だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 12また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。 13宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 14そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」


イエス様はガリラヤを離れ、エルサレムに向かって旅をしておられます。その中で語られる「客と招待する者への教訓」はルカ福音書にのみ収められているエピソードです。ある日イエス様は食事をするためにひとりのファリサイ派の議員の家に行かれます。ルカ福音書の中でイエス様はこれまでに二度ファリサイ派の人に招かれて食事をしておられます(7:36以下と11:37以下)。イエス様とは敵対関係にあったファリサイ派ですが、イエス様は招かれれば彼らとも交際し、彼らに教えを授けておられました。


この日イエス様が招かれたのは安息日の祝いの食事でした。安息日の祝いの食事とは、安息日の礼拝の後の昼食のことで、安息日には労働をしてはいけないので前日に調理をしておいたものを皆で集まって食べていました。当時人々は好んで客人を(ことに聖書の教師を)安息日の祝いの食事に招待し、そういった行為が何らかのよい行いになっていると考えていたと言われています。食事の席にはイエス様のほかに律法の専門家たちやファリサイ派の人々といった指導者階級の人々が招待されていました。


聖書の教師たちが集まるこの席でイエス様がご覧になったのは「招待を受けた客が上席を選ぶ様子」でありました。イスラエルでは円になって座っている中で主人に近い席が「上席」です。皆が少しでも主人に近い席に座ろうと自らの権威を誇示していました。1世紀のパレスチナにおいて権威や序列というのはとても大きな意味を持っていましたので、皆当然のようにそういうことをしていたわけです。


そんな彼らに、イエス様はたとえを用いて教えられます。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。」と言われるのです。彼らが上席についてはならない理由としてイエス様は「あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。」と説明されます。意外と普通、というか一般常識的な理由です。


イエス様はさらに「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。」と言われます。これは第一の日課に選ばれている箴言 25:6~7a(王の前でうぬぼれるな。/身分の高い人々の場に立とうとするな。/高貴な人の前で下座に落とされるよりも/上座に着くようにと言われる方がよい。)の内容と一致するものです。箴言というのは聖書の中の知恵文学、格言集ですから、ここでもイエス様のおっしゃっていることは霊的というよりも一般常識的に響きます。


そしてイエス様はこのたとえを「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」という言葉で結ばれます。ここでようやく、イエス様が語っておられるのは単なる処世訓ではなく、神の御前における我々の姿であるということが明らかにされるのです。神の御前においては、誰が上席に座るべきか(誰が神の近くにいるべきか)を決めるのは神であって人間ではありません。自分の力で神に近づくことができない以上、我々はただ末席に座り神の恵みを待つよりほかないのです。神様が喜ばれるのは私たちが上席を求めて高ぶる姿ではなく、へりくだって末席で待つ姿です。そうであるとすれば、私たちはこの地上の宴席においても神の民として慎み深く振舞わなければならないということが言われています。


続けてイエス様はご自分を食事に招いてくれた人に対して「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。」と教えられます。この日招かれていたのは律法の専門家たち、ファリサイ派の人々、そして律法の教師としてのイエス様と、招くことが主人にとって名誉と見なされる人々でした。


しかしイエス様は「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」と言われます。その真意は「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」というところにありました。復活の日に神様が味方してくださるのは、見返りを求めずに与えるような恵み深い人々であるということが言われているのです。


ここでもイエス様は地上の宴会を通じて神の国を見ておられます。宴会を催すような豊かな人も含めて、私たちは皆、神の前では貧しい者です。つまり、神様にしていただいたことに対してお返しをする能力がない者であるのです。神様が私たちに見返りを求めずに与えてくださっているのであれば、私たちもまた見返りを求めずに与えることを促されています。神に恵みをいただいている者として行動するということが求められているのです。


このようにイエス様は招かれた食事の席で、神の民としての正しいふるまいを教えられました。集まった人からすればきっと全然楽しくない宴会だっただろうなあと思いますが、しかしイエス様はどんな場面でも機会があれば熱心に教えてくださるお方だったということでしょう。天の国におられる神様は、私たちに見返りを求めずに与え、何も持たない私たちを宴に招待してくださるお方です。神様の前に出れば、私たちは誰も「招待されて当然」「上席に座るのが当然」の人間ではないのです。そうであるならば、私たちはこの地上にあっても、慎み深く隣人と接し、高ぶることなく暮らしていきたいと思います。

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