2022年7月3日 聖霊降臨後第四主日
ルカによる福音書10章1~11節と16~20節
福音書 ルカ10:1~11,16~20
その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。
あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
今日の聖書の箇所は、イエス様がエルサレムに向かって旅をされている場面です。イエス様は先週の箇所で三人の弟子志願者たちに「弟子の覚悟」についてお教えになった後、七十二人の弟子を選ばれます。この七十二という数字は、世界には七十(ないし七十二)の非ユダヤ民族があるという当時の通念に基づいていると言われています。創世記10章をご覧いただくとそこにはノアの家族から別れていった全世界の民族の名前が記されているのですが、この数がヘブル語聖書では七十、そしてその翻訳版のギリシア語聖書では七十二となっていることがこの通念の由来です。イエス様による七十二人の派遣は、イエス様の宣教が全世界に向けられていることを暗示しています。
イエス様は弟子たちの派遣にあたって「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と言われます。収穫をもたらすのは神であって弟子たちの力によるのではないということが初めからはっきりと言われています。弟子たちはますます働き手が増えるように願いつつ、自分に与えられた仕事に励むだけでよいのです。収穫という結果は弟子たちがコントロールできるものではありません。
派遣されるにあたって、七十二人の弟子たちは財布も袋も履物も持って行ってはならず、途中でだれにも挨拶をしてはいけないとイエス様から命じられます。あいさつをしてはいけない理由は結局のところよくわかっていませんが、いちいちしきたり通りのあいさつをしていると時間を取られるからという説、イスラエル外での伝道は危険を伴うのでむやみに知らない人に話しかけない方がいいからという説が有力です。
弟子たちは町や村についたら自分たちを受け入れてくれる人を探して、その家を基地として伝道活動を行うことになります。弟子たちが財布を持つことを禁じられているのに生活していけるのは、その家から提供される食事があるからです。また彼らはもっとよい待遇のところを探して家を渡り歩いてはならず、出されたもので満足するべきであるとも言われています。イエス様は「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ」なさいと言われます。本来ユダヤ人の食事には様々な律法上の制約がありますが、イエス様は特定の食べ物が清いか清くないかということにはこだわらずに、ただ出されたものを食べるようにと教えておられます。
さらにイエス様は弟子たちがその町ですべきことは「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言う」ことであると語っておられます。病人を癒し、悪霊を追い出し、神の国について教えることはイエス様の宣教活動の要でありました。弟子たちに対して、同じことをあなたがたもしなさいとイエス様は言われているのです。イエス様は弟子たちを必ず助けてくれる人がいるということ、病人を癒す力や神の国について語るべき言葉が与えられているということを約束して弟子たちを送り出されました。
その後17節以下では派遣された弟子たちが帰ってくる場面が描かれています。彼らは喜んで帰って来て、イエス様に「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と報告しています。悪霊を追い出すことができたということは悪霊が引き起こす様々な病気をも癒すことができたということです。彼らの宣教活動は非常にうまくいったようです。
イエス様はそれを受けて「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」と弟子たちに言われます。サタンは弟子たちが追い出した悪霊の親玉であるので、この表現は弟子たちの伝道がうまくいったことをあらわしていると考えられます。弟子たちの成功の理由についてイエス様は「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。」と語られました。弟子たちが悪なるものを退けられたのは、イエス様が彼らに権威(特別な力)をお与えになったからだというのです。
したがって弟子たちは今回の成功を自分の力によるものと考えてはなりません。イエス様が「収穫は多いが、働き手が少ない。」と言われたように、結果をお与えになるのは神だからです。彼らはイエス様の権威をかさに着て悪霊を服従させることに熱中するのではなく、自らも一信仰者として天にその名が記されていることを喜ぶべきであると言われています。「名を天に書き記す」という表現はその人が救われている(裁かれない)ことを指しています。
今日の聖書の物語は私たちに伝道するにあたっての心構えを教えてくれます。それは、うまくいく時もいかない時も、すべては神様の御心によるものだということです。イエス様は弟子たちの伝道がうまくいかなくても彼らを叱りませんし、うまくいっても彼らをほめません。結果をもたらされるのは神様ですから、人間はその結果に一喜一憂せずにこつこつ働くのが一番よいのだということが言われています。
イエス様は弟子たちに、彼らの伝道がいつもうまくいくわけではないということをあらかじめ言われています。苦難があるとも予告されていますし、拒まれることがあるとも予告されています。そんな時も弟子たちはいちいち腹を立てたり失望したりするのではなくて、また別のところへ移っていって、するべきことをしなさいと言われています。人間にできることは神様がその人の心を開いてくださるのを待つことであって、その人を変えようとあれこれ試みたり、自分を責めたりすることではないからです。
同時に、伝道がうまくいく時、これも弟子の力ではありません。結果を与えてくださるのは神ですから、弟子たちは伝道がうまくいったからといって、自分の人格や能力、努力と根性が実を結んだと思ってはいけません。神様がその人の心を開いてくださって、そこにタイミングよく遣わされたから、目の前の結果を手にすることができたに過ぎないのです。イエス様は悪霊を追い出すことができたと喜んでいる弟子たちに、「それは私がそういう力を与えてあげたのだから当然だ」という返事をされました。弟子たちの力、弟子たちの成功は、本当はイエス様の力でありイエス様の成功なのです。イエス様が「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言われたのは、イエス様の力を利用して自分がすごい人になったような気持ちになるのではなくて、一信仰者として救われている自分を喜んでいましょうねというイエス様の諭しであるのです。
私たちも長きにわたってこの小倉と直方の地で宣教の歩みを続けています。色々なことがありますが、うまくいく時もうまくいかない時も、神様の導きを信じたいと思います。うまくいっている時はそれが自分たちの力ではないことを忘れずに謙虚に過ごし、うまくいかない時はきっと神様がふさわしいタイミングを与えてくださると信じてめげずに祈りたいと思います。収穫のすべては神様が与えてくださるものだからです。
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