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ルターの宗教改革

2022年10月30日 宗教改革主日

ヨハネによる福音書8章31~36節


福音書  ヨハネ 8:31~36 (新182)

8: 31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。


今日は宗教改革主日の礼拝です。1517年10月31日、アウグスティヌス会の修道士であったマルティン・ルターが「95か条の提題」をヴィッテンベルク城教会の扉に打ち付けました。それに端を発した一連の教会刷新運動が、のちに「宗教改革」と呼ばれるようになる出来事です。当時のキリスト教会は、様々な矛盾を経験していました。その代表的なものが免罪符(贖宥状)の販売です。免罪符(贖宥状)は簡単にいうとこれを買えば罪が赦される(正確に言うと罪の償いが免除される)というもので、人々は自分の救いのため、さらには先に天に召された家族のため、こぞってこれを買い求めました。


一見愚かにも見えるこの行為ですが、当時の人々の信仰が今の私たちより弱かったかというと、決してそんなことはありません。むしろ中世の人々は、日曜日ごとの礼拝を大事にし、神様の裁きを真面目に恐れ、献金もお祈りもたくさんしました。そして真面目に贖宥状を買いました。救われるためには、たくさん献金して、たくさんよい行いを積んで、神様に認めていただかなければならない。そうでなければ神様は私たちを裁き、死んだら地獄や煉獄に連れて行かれるだろう。そう本気で信じていたのです。教会で教えられたことを信じれば信じるほど、恐れにとらわれ、不自由になっていく。そういう時代でありました。


そのような教会の在り方を批判したのがマルティン・ルターとその同僚たちです。ルターはこう主張します。私たちが神様に罪を赦していただこうと思ったら、心から悔い改めることが必要なのであって、形だけ贖宥状を買っておけばよいとかそういうものではないということ。そして、純粋な人々に贖宥状を売りつけ、莫大な寄進を得るような経済システムを築いていた当時の教皇庁は間違っているということ。これらのことをルターは「95か条」のなかで訴えました。


そしてなによりルターが主張したのは、罪の赦し、すなわち私たちの救いは、お金で買うものでも、よい行いの見返りとして獲得するものでもないということです。私たちはお金やよい行いによってではなく、ただ神様の恵みによって救われている。人の行為による救いではなく、神の恵みによる救い。このことを訴えたのがマルティン・ルターであり、その信仰の上に建てられた教会が、私たちの集うルター派教会(ルーテル教会)です。


数あるルターの教えの中で最も核となるものは「信仰義認」であると言われます。「義認」とは、神様の前で義しい(正しい)と認められること、そして義しい(正しい)と認められた人は救いをいただくことができるので、すなわち救われることと考えてよいでしょう。「信仰義認」が何なのかを理解するにはその反対である「行為義認」を考えてみるとわかりやすいと思います。前提としてルターの時代、クリスチャンの心の拠り所は「行為」でありました。献金する、免罪符を買う、個人ミサをあげた回数、お祈りした回数、告解した回数、修道院に入ったかどうか、聖地巡礼に行ったかどうか、これらのもろもろの行いが救いの判定材料です。それが十分であれば救われて、足りなければ裁きを受ける。そういう世界を生きていたわけです。


しかしルターはあることに気付きます。そうやって「行為義認」の世界を突き進んでいけば、救いというのは結局のところ「人間が」「自分の力で」「遠い未来に」勝ち取るものになってしまう。しかし救いとは「神によって」「人間の力によらず」「今この瞬間に」与えられているものではないか。救いとは、人が努力と根性によって自ら勝ち取るものではない。神によって与えられるものである。そしてそれは何の代価もなしに、ただ恵みとしてプレゼントされるものである。そうだとすれば、救いはいつか遠い未来に得るようなものではない。私たちは今この瞬間も、救われて生きている。これが本来的なキリスト教信仰の在り方、ルターが明らかにした信仰義認の世界です。


ルターは様々な経験の後に、神の裁きを恐れることから解放されて、信仰上の自由を手にした人でした。(どういう経験をしたかは去年の宗教改革主日にお話ししたので今年は割愛します。)そして、神の裁きではなく、神の恵みを宣べ伝える説教者となりました。救われるためにはたくさんよい行いをして神様に認めていただかなければならないと信じていた当時の人々に、ルターは神の恵みを説いたのです。その教えに共鳴する人が次々にあらわれ、ルターの信仰上の発見はやがて大きな時代のうねりとなっていきました。神の恵みによって救われるという真理が、人々を自由にしたのです。


神様は義なる方、正しいお方です。私たちはそんな神様にふさわしい者であろうと日々努力をします。しかし本来神様の正しさは、私たちに同様の正しさを求め、欠けているところを裁くための正しさではありません。そうではなくて、神様はその義をもって私たちを救ってくださいます。どうやっても正しく生きられない私たちに、正しい方であるイエス様を贈り、これによって私たちに救いをプレゼントしてくださいました。まるで衣を着せかけるように、神様はご自分の正しさで私たちを覆ってくださっています。私たちの力ではなく神様の力によって救いが成就されているのです。


私たちは自分の力によってではなく、神様の恵みによって救われています。救いはいずれ獲得するものではなく、すでにここにあるものです。私たちが礼拝に集うのも、奉仕するのも、献金するのも、救いを獲得するためではありません。ただ救われた喜びを分かち合うために、そうしているのです。神の恵みによって救われる。この真理、この自由を、ルーテル教会に集う私たちはいつも胸に刻んでいたいと思います。


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