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Writer's picturejelckokura

マルタとマリア

2022年7月17日 聖霊降臨後第六主日

ルカによる福音書10章38~42節


第1朗読 創世記18:1~10a

主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」


福音書 ルカ10:38~42

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」


今日はマルタとマリアの箇所からお話をしてまいります。イエス様は先週に引き続き、ガリラヤを離れエルサレムに向かっておられます。その道の途中でイエス様がある村にお入りになるところからこの話は始まります。ルカ福音書には「ある村」としか記されていませんが、ヨハネ福音書にはマルタとマリアが住んでいたのはべタニアというところで、さらに彼女たちにはラザロという病気の兄弟がおり、三人で一緒に住んでいたと書いてあります。三人一緒に暮らしていたと聞いて、今の私たちなら「きょうだい仲いいんだあ」くらいの感想しか持ちませんが、これは当時としては変わった家族でした。聖書の時代、女性は13歳くらいで結婚して家を出ましたから、成人した姉妹が兄弟と一緒に住んでいるというのは一般的ではない家族の形です。聖書では明言されていない何らかの事情があったものと思われます。


この風変わりな家族の一員であるマルタが、イエス様の一行を迎え入れます。家に迎え入れる、おもてなしをする、という一見ありふれた行為は、聖書の中では非常に重要な意味を持っています。弟子の派遣にあたって、イエス様は弟子たちを迎え入れる人が行く先に必ずいるということを語ります。そして、弟子たちを受け入れ、迎え入れる人は必ずその報い(ごほうび)を受けるということが語られています。イエス様の宣教活動においては、イエス様と弟子たちだけがいればそれでいいというわけではありません。それに加えて、彼らを迎え入れて世話をしてくれる人が不可欠なのです。ですから、イエス様とその弟子たちを受け入れて、おもてなしをしたマルタは、イエス様の宣教にとって重要な役割を果たしたと言うことができます。


イエス様が来たというのでマルタは忙しく立ち働きます。お客さんをもてなすというのは、今もそうかもしれませんが、大変な労力を必要とする仕事でした。ルカ福音書の7章を見ますと、客​が​到着​する​と口づけ​を​もっ​て​迎え、サンダル​を​脱が​せ​て​足​を​洗い、​香油​を​客​の​頭​に​塗り・・・と、客​の​宿​や​食事​に​関し​て​万全​を​期す​こと​が求められていたことがわかります。今日の第一の日課はアブラハムが三人の人(天使あるいは神とも言われています)をもてなす場面です。「アブラハムのもてなし」として知られているこの物語ですが、実際にはもてなしたのはアブラハム一人ではありません。家じゅうがひっくり返るくらいの勢いで、家族みんなでもてなしをました。


アブラハムは妻のサラにパン菓子を作らせ、自らが走って選んできた子牛で使用人に料理をさせ、自分も料理を運んで給仕をしたとあります。お客さんのもてなしは家全体でするものでありました。アブラハムのように一家の主(あるじ)といえどもただ座って話を聞いているだけでは許されず、むしろ彼自身走り回ってもてなしのために働いたのです。だからマルタはイエス様に抗議しました。マリアにも自分を手伝うように言ってくれというのです。お客さんをもてなすということが当時どういうことであったかを考えれば、マルタの言うことは正当な主張です。


さらに当時の社会的背景に目を向けると、ますますマルタの主張に分(ぶ)があります。もてなしは男女にかかわらず、家をあげての行為だったということはすでに申し上げた通りです。一方で巡回する伝道者から学ぶということは当時男性にのみ許されていたことでした。マリアはイエス様の足もとでイエス様の言葉を聞いていたとあります。聖書において「足もとで話を聞く」という表現は、すなわち「学ぶ」ということを意味します。弟子たちと同じようにイエス様の足もとでイエス様の話を聞く、つまり学ぶ、ということは女性らしい振る舞いではありませんでした。当時の常識で考えれば、マリアに求められていたのは男性と同じようにイエス様の言葉を聴くことではなく、マルタ同様にもてなしをしてイエス様の世話をすることであったでしょう。


しかしイエス様はこう言われます。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と。ここで言われているただ一つの必要なこととは、イエス様の言葉を聴くことです。イエス様の言葉を聴くこと、それが何にもまして重要なことであるのです。それがなければすべてのことは空しいとイエス様は言われています。


同じことが今日の第一の日課でも言われています。今日の第一の日課はサラに子どもが生まれるというお告げで終わっていますが、その続きをみなさんは覚えておられるでしょうか。お告げを聞いたサラは「ひそかに笑い」、主がそれを厳しく戒められるという場面が続くのです。サラは自分に間もなく子どもが生まれると聞いて、そんなはずはないと思ってこっそり笑いました。当時アブラハムはすでに100歳目前、サラもそれに近い年齢でしたので、こんな高齢者に子どもができるはずがないと思うのは当たり前のことです。しかし主はそんなサラのことを「なぜ笑ったのか」と言って戒められます。


このときサラが戒められたのは、もてなしを怠ったからではありません。食事が足りなかったからでも、女性らしい振る舞いに欠けていたからでもありません。そうではなくて、神の言葉を軽んじたからです。子どもなんか生まれるはずないという常識を優先させて、神のお告げを信じなかったからです。どんなにきちんとおもてなしをしても、どんなに常識があっても、神の言葉をきちんと受け止めないならば、それは良くないことなのです。マリアがイエスの言葉を聴くことを選んだということは神様の目に良いことでした。そしてそれは妨げることのできないことでした。女性は男性のように学んではならないという常識や、一緒にもてなしをしてくれて当然という家族の期待をもってしても、マリアからそれを遠ざけることはできません。


このようにイエス様はマリアがしたことを喜ばれ、神の言葉を聞くことをよしとされました。しかし同時に、イエス様はマルタのこともまた愛しておられます。イエス様がマルタよりもマリアを選んだと思われがちなこの物語ですが、決してそんなことはありません。注目すべきは、この物語の中で実際にイエス様と言葉を交わし、一番大切なことを教えていただいたのはマルタの方であるという点です。マルタもまたイエス様の弟子なのです。マルタは忙しく働きながら、ちょっと不器用な言い方ではあったけれどもイエス様に話しかけて、イエス様と言葉を交わし、イエス様の言葉を聞きました。そしてマルタのその在り方も、イエス様はよしとされています。


私は先ほど、マルタとサラを重ね合わせるようにして話しましたが、マルタとサラの間に違いがあるとすればこの部分です。サラはそんなことあるはずない、おかしい、と思ったことを心の中でひそかに笑ったのに対して、マルタはそんなのおかしい、というので大胆にもイエス様に話しかけるのです。マルタはイエス様に意見を求めるということができた人でした。意見を求めるというのは、すなわち相手の話を聞くということです。こうやってマルタは、マルタなりのやり方で、イエス様の言葉を聞きました。だからこそ安心して、そして自由な気持ちで、またおもてなしに戻ることができたのではないでしょうか。このイエス様とのやりとりがあったからこそ、きっとマルタは安心して仕事に戻ったのだろうと思います。


私たちもまた、同じ安心の中に生きています。マリアのようにイエス様の言葉を聞くことから私たちを妨げるものは何もないという安心、マルタのようにみことばを聞いて自由に誰かのために働くという安心、そしてまたマルタのように、どうすればいいのかわからなかったらとりあえずイエス様に聞いてみればいいという安心。マルタはマルタらしく、マリアはマリアらしく、イエス様の言葉を聞きました。私たちもまた、私たちらしくイエス様の言葉を聞き続けてまいりたいと思います。

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