2021年9月12日 聖霊降臨後第16主日
マルコによる福音書8章27~38節
福音書 マルコ8:27~38 (新77)
8: 27イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 28弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 29そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 30するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
引き続きマルコ福音書を読んでいきますが、今日から内容は後半に入ります。今日の聖書の箇所は物語の大きな転換点です。ガリラヤで伝道を始められ、弟子たちと旅を続けてこられたイエス様は、今日の聖書箇所で初めて、ご自分が死んで復活するということを明らかにされます。前半の内容で私たちはイエス様のなさったことを聞いてその素晴らしさから学んできましたが、後半ではそんなイエス様が私たちのために十字架におかかりになるということを知っていくことになります。
今日の物語は、イエス様がフィリポ・カイサリア地方に行かれるところから始まります。フィリポ・カイサリアはガリラヤ湖から北に40㎞行ったあたりに位置し、異教の神パン(多産の神)の聖所と皇帝アウグストゥスの神殿が置かれている町でした。パン神にゆかりがあることからかつては「パナセア」と呼ばれていこの町ですが、領主フィリポが皇帝からこの土地を与えられたことをきっかけに「フィリポ・カイサリア」と改称されます。カイサリアは「皇帝の町」という意味です。いずれにせよユダヤ教的とは言い難いこの町ですが、イエス様はフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになり、そこでも教えようとされていました。
その道すがら、イエス様はご自分の弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられます。イエス様の問いに対する弟子たちの答えは様々でした。彼らは「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えます。6章ではすでに「さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は『バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ』と言い、他の人々は『彼はエリヤだ』と言い、また他の人々は『昔の預言者のような預言者だ』と言った。」ということが語られていて、当時の人々がイエス様のことを様々に見ていたことが伺えます。
イエス様はさらに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と弟子たちに尋ねます。緊張の瞬間です。しかし弟子たちははっきりと答えることができません。洗礼者ヨハネである可能性も、エリヤである可能性も、預言者である可能性もあって、結局のところイエス様が誰なのかよくわからなかったのではないでしょうか。そんな中、弟子のひとりペトロが決然とした答えをします。「あなたは、メシアです。」(口語訳では「あなたこそキリストです」)と答えて、イエス様が誰であるのかを正しく言い表したのでした。
これは素晴らしい答えでしたが、イエス様はペトロの答えを聞いてただ「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められ」たのみでありました。不思議な展開ですが、イエス様は人々を警戒してこのように命じられたのではないかと思われます。イエス様のうわさがすぐに広まる状況にあって、人々にこの話が伝われば、イエス様は間違ったメシア像を投影され、政治的な解放者として活動することを期待されるようになるからです。
実際に使徒言行録1章には「さて、使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた。」と記されています。「イスラエルのために国を建て直」すこと、それが人々の期待するメシアの役割でした。メシアと聞いて人々が想像するのは、イスラエルをかつての栄光へと復興する民族の王、すなわちイスラエルをローマ帝国の支配から解放してダビデ時代に回帰させる政治的な王だったからです。
しかしイエス様が語り始めた展望は、そのような期待とは全く異なるものでした。イエス様は「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と弟子たちに教え始められます。これは福音書中に三回起こるいわゆる「受難予告」の最初のものでした。イエス様はご自身がメシアであるということの本当の意味を弟子たちに語られます。私は苦しみを受けることですべての人を罪から救うメシアだというのです。第一の日課であるイザヤ書50章には苦難の僕としてのメシアの姿が預言されています。非常に痛々しい姿でありますが、それこそがイエス様の言うメシアでありました。
この衝撃的な事実をイエス様ははっきりとお話しになります。それを聞いたペトロはイエス様をわきへお連れして、いさめ始めました。新共同訳で「いさめる」と訳されているエピティマオーというギリシア語は、非難する、叱る、注意する、警告するなどの意味を持つ言葉です。ペトロはイエス様のおっしゃることが受け入れられず、強い言葉でイエス様を否定しました。
そんなペトロと弟子たちをイエス様は叱ります。苦しみを受け、死んで復活することで人々を救うという神様のご計画を妨げることは彼らには許されていないのです。人間には計り知れない神の御心を行うためにイエス様はこの世に来られ、ご自分を十字架で犠牲にされることによってすべての人を救われました。それはありがたいことでありながら、人間には理解しがたいことです。ですからそのことが明らかになった時、弟子たちは戸惑い、イエス様の言葉を撤回させようとしました。しかしそれは神様のご意思を妨げる行為、サタン的な行為でしかないのです。
さらにイエス様は「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われます。イエス様はご自分の苦しむ救い主としての姿を、弟子たちと群衆が模倣することを望まれました。イエス様の栄光を慕い、その分け前をいただけると思っていた彼らからすれば、思ってもみなかった呼びかけです。混乱と不安が一気に押し寄せたのではないでしょうか。私たちとしても、イースターから半年がたって久しぶりにこういう箇所に差し掛かると少々不安になってきます。
このように福音書の物語は大きな転換点を迎えます。弟子たちと群衆はこれまで、イエス様の行う驚くべき奇跡を見て、イエス様の語る素晴らしい教えを聞いて、イエス様を特別な方として受け入れ、イエス様をメシアと信じました。そしてここから、真のメシア像、イエス様がメシアであるとはどういうことかということが明かされていきます。イエス様を理解するには、イエス様のなさったことの素晴らしさだけを知るだけでは不十分です。それだけではなくて、イエス様が私たちのために苦しみを受けられたということを知る必要があります。イエス様は私たちの救いのためにご自身を捧げられたメシアであるからです。
これから福音書の後半を続けて読んでまいります。私たちも弟子たちと同じように戸惑いながらイエス様の言葉を聞くかもしれません。しかしそんな中でも、少しでも神様の御心に触れられるようにしていきたいと思います。
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