2022年5月8日 復活節第四主日
ヨハネによる福音書10章22~30節
そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」
引き続き復活節の日々を過ごしています。復活節はイースター当日からペンテコステまでの50日の期間を指していて、その名のとおりイエス様の復活をお祝いする期間です。この間キリスト教徒は断食などの苦行をせずに喜びと平安の期間を過ごします。私たちはこれまで3週にわたって復活のイエス様が弟子たちに姿を現された話を読んでまいりました。今日からの3週間はヨハネ福音書からイエス様の教えられたことを振り返っていくことになります。
今日の聖書の物語はイエス様がエルサレムで神殿奉献記念祭に行かれるところから始まります。神殿奉献記念祭は毎年12月に行われるお祭りで、紀元前2世紀、マカバイ一族率いるユダ王国がセレウコス朝シリアからの独立戦争に勝利し、エルサレム神殿を奪還したことを記念するものです(今も祝われています)。その日、イエス様は神殿境内東側の、ソロモンの回廊というところを歩いておられました。
するとユダヤ人たちがイエス様を取り囲みます。そして「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と要求しました。イエス様はこれまでサマリアの女性(4:26)に対してご自分がメシアであることをはっきりと告げられましたが、ユダヤ人たちの前ではそういうことをあからさまに言うことはありませんでした。しかしイエス様の教え、イエス様の行われる奇跡の業はあちこちで評判になっていたので、ユダヤ人(と物語上呼ばれる人たち)は「この人は本当にメシアだろうか」と気をもんでいたのです。
どうして気をもんでいたのか。もちろんイエス様が目立っていてうっとうしかったということもあったと思いますが、神殿奉献記念祭というこの物語の設定を手掛かりに考えてみますと、やはり背景には、政治的・軍事的メシアを今か今かと待ち望んでいたユダヤの人々の民族感情があったのだと思います。神殿奉献記念祭は異邦人政府から自分たちの神殿を取り返したことを祝うお祭りです。そのことに象徴されるように、ユダヤの人々は常に周辺諸国との政治的・軍事的緊張の中に生きていました。強力に国を指導するメシアが現れて、そういう心配から解き放たれる日を切実に待ち望んでいたのです。
だからこそ彼らはイエス様に問います。「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエス様が本当に敵を滅ぼしユダヤ民族に繁栄をもたらすメシアであるなら、早くそう言って安心させてほしいと思っていたからです。何度も戦争を経験し、何度も国を破壊され、何度も信仰を抑圧されてきた彼らには、そういう切実な気持ちがありました。
しかしイエス様は彼らの期待にはお応えになりません。イエス様は確かにメシアでありますが、敵を滅ぼし、イスラエルのみに利益をもたらす、そんなメシアではなかったからです。イエス様は敵を愛し、すべての人のためにご自分をお与えになるためにこの世に来られたメシアでありました。イエス様を信じて手にすることができるものは、領土や戦利品ではありません。そうではなくて、愛、ゆるし、永遠の命です。これは究極的には幸せなことですが、しかし普通人々が期待するものとは違うというのもまたわかります。
だからイエス様は「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」と言われます。あなたは私の声を聞き分けているか、私が言っていることを私の言葉通りに聞くことができているか、私がメシアであるということの本当の意味を理解することができているか、と。そうでなければ、イエス様を信じても失望するだけだというのです。
続けてイエス様は言われます。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。」イエス様はここで、イエス様というメシアを信じて得られるものはこの世的なものではないということをはっきり告げておられます。しかしそれは誰にも奪うことができないものであり、どんなものより偉大なものであるというのです。
このように、イエス様はご自分に詰め寄るユダヤ人に対して、ご自分がメシアであるということ、しかしイエス様の声を聞き分ける(イエス様を信じる)ことができる人とできない人がいるということ、を言われました。ちょっと突き放したような言い方です。聖書は物語上わかりやすくするために信じる人と信じない人にキレイに分かれるような言い方がされていますが、私はしかし、実際には、そういう二種類の人がいるというよりは、聞き分ける(信じる)ことができる自分とできない自分という二種類の自分が、本来一人の人の中にどちらもあるのではないかなと思います。
自分自身を振り返ってもそうですが、もちろん聖書の言葉を聞いて感動して、永遠の命や神様の愛を尊ぶ私がいる一方で、今戦争のニュースなどを目にすると、国土防衛、民族主義を訴える人々の気持ちがわかると思う私もいます。私たちは神の子として神の国に生きながら、この世にあってこの地上の国に生きているわけですから、いつもそういう二面性を抱えていると思うのです。そしていつの間にか自分が神様の子ども、神の国の住人であることを忘れて、もっぱらこの世的に生活しているというのもまたあることです。
しかしその中で、イエス様が私たちに語り掛けてくださるその声が、私たちの中の信仰を強めてくださいます。私たちがイエス様の声を聞き分けて、イエス様の羊であることを思い出すように、地上における様々な困難の中にあっても、愛、ゆるし、永遠の命を求めるように、イエス様はいつも私たちに語り掛けてくださっているのです。この世の現実を生きながら神様を信じるということは簡単なことではないなあと思います。しかしこうして聖書の言葉を聞く中で、イエス様に養われ、イエス様の羊としての自分を取り戻すひと時を、これからも大切にしてまいりたいと思います。
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