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  • Writer's picturejelckokura

イエスの洗礼

2022年1月9日 主の洗礼

ルカによる福音書3章15~17節と21~22節


福音書  ルカ3:15~17,21~22 (新106)

3:15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」


3:21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


今日は主の洗礼の主日です。この日私たちはイエス様が洗礼を受けられたことを記念し、私たちの受けた洗礼について思いを新たにします。私たちの多くは洗礼を受けてここに集っていますが、洗礼とは何か、ということを説明するのは意外と難しいものです。実際に洗礼の意味というのは一つではありません。「イエス・キリストと一体になること」「教会への統合」「新しい誕生」「罪の赦し」「聖霊を受けること」など、主なものでも五つあると言われています。しかしそれもよく考えてみれば自然なことで、「働く意味」や「家族の意味」が複数あるように、私たちにとって身近で重要なものほど、一つの言葉のうちにたくさんの意味を含んでいるのだと思います。


先日小倉教会で地域のサークルに礼拝堂を貸し出したというお話をいたしましたが、その時この洗礼盤についても興味を持たれた方がいたので、これは洗礼の時にこうやって水を入れて使うんですよとご説明しました。でも洗礼盤について理解してもらうためには洗礼が何かということを理解してもらう必要があるわけで、意外と説明にてこずりました。


水で洗礼を授けると聞いて、ある方は「神社で手を洗うのと同じような感じですか」と言われました。確かにその方の知っている宗教的行為で言えば、それが一番近いのでしょう。神社にお参りした人が手を水で清めてから神様にご挨拶に行くように、キリスト教の洗礼にも「清める」という意味はあります。しかし神社で手を洗うという行為が繰り返し行われるのに対して、キリスト教の洗礼は人生でただ一度行われる行為です。それは、私たちの受けた洗礼が、一時の儀式的な清浄や身体的清浄を目的とするものではなく、神様との消えない絆を約束するものであるからです。


神社の手洗いは、私たちの存在を根本的に変えることが目的ではありません。一度身を清めても汚れたらその度に洗います。しかしキリスト教の洗礼は、私たちの存在の根本を、私たちがあずかり知らない形で変えるものです。つまり、洗礼を通して私たちは根本的に神様と結びついている存在になるということです。洗礼を通して結ばれた神様との関係は決して消えることがありません。私たちがどんなに汚れたと思っても、どんなに悪いことをしたと思っても、もう一度洗礼を受けなおす必要はありません。私たちは一度洗礼を受けたら、永遠に神様と共にいるからです。ちょっと何かしたくらいで神様が私たちを見捨てることはありません。洗礼が約束するのは何があっても消えることのない神様との永遠の絆です。


また別の人は「洗礼の時は特別な水を入れるんですか」と聞かれました。私が「水道水で大丈夫です」と答えるととっても驚いておられましたが、キリスト教の洗礼は水そのものに何か特別な力を見いだすものではありません。そうではなくて、むしろこのありふれた水、私たちが普段何気なく使っているこの水が、神様の言葉、神様の約束と結びついた時に、神様の力によって特別な役割を果たすという風に考えています。水そのものよりも「水と霊とによって新しく生まれなさい」「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」という神様の言葉、神様のご意思の方に重きがあるのです。


ですからヨルダン川から水を汲んでくる必要はなくて、普通の水でも神様が定めてくださった洗礼という形を取るならば、それが私たちを罪から清め、私たちを神様と結びつける水になります。ちなみに聖餐式もこれと同じアイデアで理解することができます。パンとぶどう酒というありふれた食べ物が(日本人にとってはありふれたと言えるかどうか微妙ですが)「これは私の体である」「これは私の血である」という神様の言葉によって、私たちの信仰を強める糧となるというわけです。大事なのはそう約束された神様の言葉であって、パンとぶどう酒に重きがあるわけではないのです。


まあでもこういうことを初めて教会に来た人にくどくど言うのもどうかなと思いましたので、ほどほどのところでやめておきました。信仰というのは実践を伴わないと理解に至らないものですので、なかなか、私たちの信じているものを言葉で表現し切るというのは難しいですね(難しいですねとか言ってちゃいけないのですが・・・)。でも来られた方がキリスト教の洗礼は神社で手を洗うのとは違うらしい、水そのものをありがたがってるわけではないらしい、ということがわかってもらえたなら、まずはよかったかなと思います。


今日は主の洗礼の主日ですので、洗礼というものについてご一緒に考えてみました。洗礼は私たちにとって一生に一度の出来事です。洗礼を通して私たちは永遠に神様に受け入れられ、力強い清めと力強い祝福が与えられます。神様はどんなことがあっても、洗礼を受けた人と共にいてくださいます。そして洗礼は神様の言葉が水というありふれた物質と結びついて起こる神秘です。水そのものに特別な力があるわけではなくて、聖書において語られた神様の約束のもとに水を受ける時、それは神様の力によって洗礼という秘跡になるのです。私たちはこの日、改めて洗礼の持つ深い意味を思い、洗礼によって約束された神様との消えない絆を喜びたいと思います。

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