2022年9月11日 聖霊降臨後第十四主日
ルカによる福音書15章1~10節
福音書 ルカ15: 1~10 (新138)
15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。 4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 9そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
私たちはこれまで数週間にわたって、イエス様がガリラヤからエルサレムに向かう途中で人々にお教えになった話を聞いてきました。三週間前はイエス様が安息日に背中の曲がった女性を癒された話、二週間前はイエス様が招かれた食事の席で謙遜の大切さをお教えになった話、そして先週はイエス様が弟子になることの厳しさについて群衆にお教えになった話と、さまざまなエピソードがありました。
私たちが聞いてきたこれらのお話を振り返って思うのは、イエス様が人々に求めておられることは実はそんなに多くないということです。イエス様は人々に、安息日の律法を厳守することも、食事の席で上座に座るような偉い人になることも、すべてを捨てて命がけで弟子になることも、お求めになりませんでした。むしろイエス様は安息日に病人を癒しても良いと言われるし、上席に座るような偉い人にならなくても良いと言われるし、無理して弟子になろうとしなくても良いと言われています。ご自分を慕い、神を信じる人々に対して、イエス様は多くのことを求めていません。
そんなイエス様が私たちに求めておられることがあるとすれば、それは何でしょうか。そのことが明らかになるのが今週の聖書の箇所です。今日の福音書の物語は、徴税人や罪人が話を聞こうとしてイエス様に近寄ってくるところから始まります。聖書に登場する「徴税人」は、ローマ帝国に納める税金をユダヤ人から徴収していた人々を指しています。彼は手数料の取りすぎによって民衆に嫌われ、さらには異邦人支配の手先であるとして「罪人」という扱いを受けていました。
当時のイスラエルの社会において「罪」というのは第一義的に神の律法を守らないことを指しています。職業上の理由や、金銭的、精神的、肉体的な不自由さから、律法(安息日の規定、食物規定、清浄既定など)を守ることができない人はみな「罪人」と呼ばれていました。そんな彼らがイエス様のもとに来て話を聞こうとしていたのです。彼らは見失った神様の姿を探し、イエス様にみ言葉の解き明かしを求めていました。
その様子を見てファリサイ派と律法学者がイエス様をとがめます。彼らは「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と言うのです。律法の専門家である彼らは、そのような社会的階層の人々と交わること自体が宗教的に好ましくないと考えていました。そんなファリサイ派と律法学者に反論して、イエス様はたとえを用いて教えられます。一つ目は「見失った羊のたとえ」二つ目は「無くした銀貨のたとえ」です。
これら二つのたとえは、どちらも同じ構造をしています。百匹の羊を持っている羊飼いは一匹の羊を見失い、十枚の銀貨を持っている女性は一枚の銀貨を無くします。どちらの人も、あと九十九匹いるからいいやとか、あと九枚あるからいいやとか、そういうことは言いません。失ったものが見つかるまで、あちこち必死に探します。これは私たちに対するイエス様ご自身の姿をあらわしています。イエス様はご自分のもとにあるすべての人を大切にすることを使命としておられますので、一人くらい別にいいやと言って放っておいたりはされません。
そうして見失った羊を発見した羊飼いはその羊を肩に乗せて連れ帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言ってはしゃぎます。無くした銀貨を発見した女性も友達や近所の女たちを呼び集めて、「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言って回ります。そしてこれこそが、罪人を招くイエス様の姿であるということが言われているのです。
ここでいう羊を連れ帰ること、銀貨を取り戻すことは、イエス様にとって、罪人が悔い改めることを指しています。罪人が悔い改めることとは、神様から離れ、迷い出て、神様の視界の外に出てしまった人が、再び神様の手に取り戻されるということです。何らかの理由で神様から離れてしまった人、離れざるを得なかった人が再び神様に近づこうとして、イエス様のもとに集まってきたということです。
そんな罪人の悔い改めがイエス様にとって大きな喜びであるということをこれらのたとえは語っています。そして同時に語られているのは、私たちに求められているのは、それを共に喜ぶことであるということです。羊を連れ帰った羊飼いが友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言ったように、イエス様は私たちに罪人の悔い改めを「一緒に喜んでください」と言っておられるのです。それが数少ない、イエス様が私たちに本当に求めおられることの一つです。
私たちは律法を一つ残らず守る必要もなければ、宴会で主人の隣に座るような立派な人物になる必要もなければ、無理してイエス様の弟子になる必要もありません。もちろんそうなれたほうが良いと言えばそうですが、そうなれなくてもイエス様は結局私たちのことを救ってくださっています。私たちがより良い信仰者になろうと気負ってしまう一方で、意外とイエス様は私たちに多くのことを求めていません。
そんなイエス様はしかし、誰かが悔い改めた時には、一緒に喜んでくださいと私たちに言われます。見失った神の民が連れ帰られたのなら、私と一緒に喜んでくださいと言われるのです。私たちに求められているのはただそれだけ、信仰の仲間を受け入れ、その人が神に再び見いだされたことを喜ぶことです。神様のなさったことを喜ぶということは信仰者にとってとても大切なことです。なぜなら、それが神の力を信じるということであり、神のみわざを賛美するということだからです。
もちろん私たちはこの物語の「近所の人」であるだけではありません。私たちは時に「見失った羊」「無くした銀貨」そのものです。イエス様を知らずに生きてきた人、教会に足が向かない時期があった人、教会に嫌々行っていた人、みんな一度はそんな経験をしたことがあるのではないでしょうか。しかし私たちは一人ひとりがイエス様によって見つけ出され、イエスの肩に担がれて、本来あるべき場所に帰ってくることができた、そういう羊の集まりです。私たちはイエス様に見つけていただいた者同士、お互いがここに連れ帰られたことを、いつまでも喜びあっていたいと思います。それこそがイエス様が私たちに求めておられることだからです。
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