2020年8月30日 聖霊降臨後第13主日
マタイによる福音書16章21~28節
21このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。 28はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
先週私たちは弟子たちの信仰告白の物語を聞きました。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問うイエス様に対して、弟子の代表であるペトロが「あなたはメシア・生ける神の子です」と答えたのです。人々がイエス様のことを預言者の一人だと思っていたのに対して、弟子たちはイエス様が救い主であり神の子であるということを悟り始めていました。しかし弟子たちはイエス様が何者であるかを完全に理解していたわけではないようです。今日の福音書の日課にはそのことが描かれています。
今日の福音書の物語では、イエス様は弟子たちに対して、ご自分が十字架にかかって死ななければならないということを打ち明けられます。「多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」というのです。このようなイエス様のお話は「受難予告」と呼ばれ、福音書の中で三回繰り返されます。これが一度目の受難予告です。イエス様はすべての人の救い主として、罪のゆるしのためにご自分が十字架におかかりになることをご存じでした。そして、イエス様が救い主であるということを信じ始めた弟子たちに対してそのことを伝えられたのです。
しかし弟子たちはイエス様の受難予告を受け止めることができません。イエス様がずっと一緒にいてくださって、自分たちを導き守ってくださると思っていたでしょうから、とても不安になったと思います。しかしそれ以上に、弟子たちはイエス様がメシア(救い主)であるということをそういう風には理解していませんでした。弟子たちが信じていたのは十字架にかかってすべての人を罪から救うメシアではありません。そうではなくて、ユダヤ民族の新しい指導者になって、戦争に勝ってイスラエルの国を豊かにするメシアでした。そしてそう思っていたのは弟子たちだけではありません。イスラエルの人々にとってメシアとはそういう存在、ダビデのような強くて賢い王様が再び現れて、ユダヤ民族を救ってくださるという信仰が彼らの最大のよりどころでした。そういうわけで弟子たちは、イエス様が十字架にかかって死ぬことも、すべての人を救うことも、別に求めていなかったのです。
ですから弟子たちは混乱します。世界なんか救わなくていいから我々とイスラエルの国にもっといい思いをさせてくれと思ったでしょう。そして何よりそのためにはまずイエス様が生きていてくれる必要があるわけです。そこでペトロは反論します。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と、イエス様の受難予告に対して明らかに反対します。新共同訳ではペトロはイエス様を「いさめた」となっていますが、これは原典ではほとんど「反論する」に近いような、結構強い意味の言葉です。救い主に向かって反論するというのはなかなか失礼な行為ですが、イエス様は人を押さえつけて支配するような方ではありません。聖書を読むと、イエス様は弟子たちに、そして行く先々で出会う人たちに、ご自分に対して反論することをゆるしておられたということがわかります。
例えば、漁師をしていた弟子たちがイエス様と出会う場面(ルカ5章)。「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」と言われたイエス様に対して、弟子たちは「一晩中やったけど何も捕れませんでしたけど…」とちょっと不服気味に言います。例えば、ラザロという人が死ぬ場面(ヨハネ11章)。病気の知らせを聞いてもすぐには訪ねてきてくれなかったイエス様に対して、ラザロの姉妹であったマルタは「あなたがここにいてくださったら私の兄弟は死ななかったでしょうに」と食って掛かります。なんでこんなに遅れてくるんだと言わんばかりです。このほかにも、イエス様に反論する人たちは聖書の中に度々登場しますが、そのような人々をイエス様は裁くことがありません。むしろそのような人々の話に耳を傾けてくださったのが聖書の伝えるイエス様でした。
私たちにとっても、イエス様に反論したくなる時というのがあるように思います。病気になったり、大切な人を失ったりすると特にそうかもしれません。こんなことになるなんて、イエス様の方が間違ってる、こんな思いまでしてなんの意味があるんだ、と思ってしまうようなことが私たちの人生には度々起こります。思い通りにならないことがあると、イエス様何やってるんだと文句を言いたくなるのです。弟子たちがもう一度網なんか投げても意味ないと思ったように、マルタがラザロの死を受け入れられなかったように、そしてペトロがイエス様の十字架を受け入れられなかったように、私たちもまた、受け入れられないことや無意味に思えることを経験します。そして私たちも、時には聖書の登場人物がしたように、こんなのおかしいとイエス様に反論することがあっていいんだと思います。あなたが納得できなくて反論しても、イエス様はそのことであなたを見捨てることはありません。
しかし聖書を読んでいると、私たちはもう一つの大事なことに気づきます。それは、人間には反論することが許されているけれども、でも結局間違っているのは人間のほうだということです。弟子たちは網を投げても魚なんか捕れるわけないと思っていました。しかし弟子たちのほうが間違っていました。漁をしてみると網は魚でいっぱいになりました。マルタはイエス様がもっと早く来てくれたならラザロは死ななかったのにと思っていました。しかしマルタの方が間違っていました。死んでいたラザロでさえもイエス様は生き返らせてくださいました。そしてペトロはイエス様が死ぬなんてあってはならないと思いました。しかしペトロのほうが間違っていました。イエス様は十字架にかかって、すべての人の救い主になられました。
私たちの人生もまたそうです。私たちが神様間違ってる、こんなのいらない、とどんなに文句を言ったところで、結局間違っているのは私たちのほうです。神様は私たちが望むものを与えてくださるとは限りませんが、いつも私たちにとって最高のものを与えてくださっているのです。神様は、私たちがこれさえなければ幸せなのにと思っているつまずきや、私たちが解放されたいと願っている苦しみに、私たちにははかり知ることのできない意味を与えてくださって、人間の思いを超えたところで、私たちを祝福してくださっています。私たちが「神様何やってるんだ」と思うまさにその時にも、神様の御心が働いています。失敗や弱さ、死や十字架といった救いようのない状況にあっても、そこには神様の深いご計画があるのです。(もちろん今苦しんでいる人にこういうことを言うのは危険なことだと思います。目の前の人の苦しみに対してそれも御心だから我慢しなさいとか言うつもりは全然ありません。むしろ一緒に神様に文句を言うだろうと思います。しかし苦しみの中にも神の御心が働いていて、困難の中にも意味があると伝えることは、宗教が社会に対して果たす大切な役割です。それは神様にしか言えないこと、教会にしか伝えられないことだからです。)
今日のイエス様とペトロのやりとりは、私たちに人間の思いを超えた神の御心を教えます。ペトロにとってイエス様の十字架はあってはならないこと、死であり、終わりであり、呪いでありました。しかし聖書が示すのは、それは本当はなくてはならないこと、救いであり、祝福であり、新しい命のはじまりであったということです。同じように、私たちが忌々しいと思っているもの、これさえなければ幸せになれるのにと思っているもの、こんなものを負わせるなんて神様の方が間違っていると思うようなこと、そこにもきっと神様の御心が働いています。私たちの人生には、神様に言い返ししたくなるようなこと、あってはならないと思えるようなことが起こります。そんな時はペトロやマルタがしたように、大いに反論して文句を言えばいいと思います。しかし同時に、それが神様の御計画だったとわかる時、間違っていたのは神様ではなく私だったと受け止められる日が来るかもしれないという希望を、私たちは今日の聖書のみ言葉から受け取りたいと思います。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われるイエス様に、これからも従ってまいりましょう。
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