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Writer's picturejelckokura

花婿キリスト

2020年11月8日 聖霊降臨後第23主日

マタイによる福音書25章1~13節


マタイ 25: 1~13 (新49)

1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

宗教改革主日、全聖徒主日が終わって聖霊降臨後の日課に戻ってまいりました。月末には待降節が始まります。教会の一年は待降節から始まりますので、今私たちは教会の暦の上では一年の終わりの時を過ごしていることになります。教会暦の締めくくりであるこの時期に、毎年どういう聖書箇所が読まれているかみなさんはご記憶でしょうか。今の時期、教会暦の終わりにあたる時期には、終末に関する聖書箇所が日課として選ばれています。ですから私たちはこれから3週間にわたって終末ということについて聖書から聞いてまいります。終末というのは「この世の終わり」のことですが、教会暦の終わりにあたってこの世の終わりについて考えようというのです。


聖書には、終末、再臨、裁きといったテーマが多く登場します。特に新約聖書が書かれた時代、キリスト教徒の人々は非常に切迫した終末意識の中を生きていました。この世の終わりはすぐに、明日にでもやって来て、その時世界は一変し、人間は救われる人と裁きを受ける人に分けられると深く信じていたのです。その背景には社会の混乱がありました。戦争や災害が多発する中にあって、これを終末の前兆ととらえた人が多くいたのです。そして聖書には終末というテーマが繰り返し語られることになります。終末はいつ来るのか、その時誰が救われるのか、救われるためにはどうすればいいのか、といったことが非常に大きな関心事だったからです。


今日の聖書の箇所では、花婿を待つ十人のおとめが描かれています。イエス様の時代、結婚式の日には若い女性たちが夜中にたいまつを持って花婿を出迎え、花婿の家でお祝いの踊りを踊ったそうです。花婿にたとえられているのがイエス様、そして花婿であるイエス様がやってくる時が終末の時です。花婿はなかなかやってきません。いつくるのかもわかりません。しかし花婿を待つ間、賢いおとめたちは予備の油を用意して準備万端で待っていました。反対に、愚かなおろかなおとめたちはそれを怠ってしまいます。そしてついに花婿がやってきたとき、賢いおとめたちは花婿と一緒に婚宴の席に入ることができて、愚かなおとめたちは焦って準備をしている間にそこから締め出されてしまいます。


このたとえが語るのは、準備のできている人だけが、終末に際して神の国に入ることができるということです。いつやってくるのかわからない終末に常に備えていなければならないということです。初期の教会ではこのようなことが繰り返し教えられていたと思われます。終末がいつやってきてもいいように、終わりの時に慌てたり後悔したりすることのないように、忠実にその日を待とうとお互いを励ましあっていたのです。この世の終わりが明日にでも来るかもしれないと真面目に考え、終末の到来をいつも心に留めていました。


2020年に生きている私たちは、聖書の言う終末、つまり最終的な「終わりの時」が結局まだやってきていないということを知っています。それでも私たちは、生きている限り、小さな「終わりの時」をいくつも経験します。私たちの見ている世界、当たり前だと思っている価値観には必ず終わりが来ます。社会の在り方も世間の常識も、古いものが終わって新しいものが生まれていきます。私たちの命も、いつか終わります。別に終末の天変地異が起こらなくても私たちは必ず死にます。だから今この瞬間も命の終わりに向かって生きています。そして、あえて申し上げるならば、各個共同体としての教会もいつかは終わります。神の体としての教会は滅びませんが、〇〇市の〇〇教会がいつまでも成長して、永遠に存続するという保証はどこにもありません。このように私たちは様々な終わりとともに生きています。いつか来る本当の終末に備えて、これらの小さな終わりに忠実であるように心がけるのは、聖書的にみて決しておかしなことではないはずです。


さっきから終わる終わるとばっかり言ってなんだか申し訳ないような気もしますが、しかしここで申し上げておきたいのは、聖書は「終わり」を悪いものとして描いているわけではないということです。人間はどうしても「終わること」「終わりに向かって進むこと」を悪いこと、あってはならないことのように判断してしまいます。しかし聖書が語る「終末」「終わり」は、決して悪ではありません。それは定められたときにただ来るものです。人間がはかり知ることのできない、神様の御計画の一部です。だから終わることが悪いのではなくて、終わりの準備をしていないことが、終わりなど来ないかのように生きることが、悪であり、愚かなことであると聖書は語っています。


人間って始めることや成長させることには関心がありますし、やりがいを見つけやすいと思います。私もそうですが、自分が始めたことで思ったような成果が出ると、自分の力で何かができたような気がしてうれしくなります。しかし聖書の中では、何かを生み出すのも、増やすのも、成長させるのも、神様の仕事です。もちろん私たちも一生懸命奉仕しますが、しかし本質的にはそれは神様だけがおできになることです。一方で聖書は人間ができることとして、終わりに備えるということを描いています。いつか終わりの時が来るということを忘れずに、思慮深く進んでいくように、私たちに促しているのです。人間にできることはそれだけだからです。


私たちのこの教会も、終わりに向かっているのかもしれないと思う瞬間が自然と増えてきたかもしれません。これからこの共同体は、この建物は、今までと同じようには維持できないかもしれない、どうしていけばいいんだろう、とみんなで一生懸命考えているところです。そんな私たちは、聖書的にみてすごく意味のある時間を過ごしていると思います。教会が始まる時、成長する時ももちろん大事です。むしろ世の中の価値観からすればそういう時「だけ」が大事です。けれど聖書的にとらえるならば、終わる時、終わりに備える時も同じかそれ以上に大事なのです。終わりなど来ないかのようにふるまうことではなくて、いつか終わりが来るということを覚えて備えて待つということが、キリスト者の基本的な生き方であるからです。


キリスト者にとって、終わりは悪いものではありません。それはただ来るもの、自然の摂理、神様の御計画の一部です。私たちは聖書の語る本当の終末をまだ経験していませんが、その時に備えるためにも、日々経験する小さな終わりに忠実でいたいと思います。すべてのものには終わりが来ます。この一年、私たちの人生、私たちの生きる時代、そして私たちの集う教会。それぞれの終わりをどのように迎えるかということに、神様に祈りつつ向き合っていきたいともいます。

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