2020年10月11日 聖霊降臨後第19主日
マタイによる福音書22章1~14節
1イエスは、また、たとえを用いて語られた。 2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 3王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 4そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 5しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 7そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 8そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 9だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」
イエス様はエルサレムに入り、そこで祭司長、長老たち、ファリサイ派の人々と対峙しておられます。先週、先々週に引き続き、イエス様はたとえを用いて裁きについて語られます。それは強い警告であり、人々に悔い改めを促すためのものでした。今日のたとえ話は「婚宴のたとえ」です。ある王が王子のために婚宴を催した、というところから話が始まります。今の私たちは結婚というに対して「愛」「幸せ」「家族」みたいなイメージを持っていますが、聖書の時代の人々にとっては少し違ったかもしれません。結婚は、聖書の中では第一に「神とイスラエルとの関係」をあらわすたとえでありました。神と神の民とが固いきずなで結びつけられることを、結婚という言葉であらわしたのです。
結婚にあらわされる神と人との理想の関係。その祝いに王は人々を招きます。このとき王にたとえられているのが神様、そして最初の招待客にたとえられているのがイスラエルの人々です。王は丁重に人を招きます。前もって招待状を送り、豪華な食事を用意したうえで、家来をやって招待客を迎えに行かせます。この家来にたとえられているのが預言者です。彼らは神様から遣わされて、選ばれた民イスラエルの人々を、神様とのよい関係に招くのです。しかし最初に招かれた人々はこれを無視しました。ある人は畑へ、ある人は商売に出かけて、またある人は王の家来を殺してしまいます。イスラエルの人々が神様の招きを軽んじて、預言者たちを殺したことがここで言われています。そうして、この人たちは王の怒りを買って滅ぼされてしまいました。
それでも王は諦めません。さらに家来たちを送って町の大通りに行かせ、見かけた人をだれでも招くように言いました。この時招かれた雑多な人々が、ユダヤ人ではない異邦人たちです。招待状をもらっていない、前もって選ばれたわけではない人々も王は気前よく婚宴に招きます。そうして招かれた人たちはこれを無視せず応答したので、婚宴はお客さんでいっぱいになりました。めでたしめでたし。これまでのたとえでしたらそれで終わりといったところですが、今日のたとえは少し違います。後から招かれた人々、すなわち異邦人の信仰者の中にも、正しくない人、裁きを免れない人がいるというのです。先週まで読んできた二つのたとえは、イスラエルの人々が裁かれて救いが異邦人に与えられるというところで終わっていましたが、今日のお話では、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、ふさわしくない人はみな裁きを受けるということが語られています。王は客の中に婚礼の礼服を着ていない人を見つけると、その人を外へ放り出してしまうのです。招かれて応答するところまではよかったけれども、婚宴の席、すなわち神と神の民との理想的な関係にふさわしい振る舞いができない人は、神様にそのことをとがめられ、追い出されてしまいます。
イエス様が教えておられるのは、まず神の招きに応答すること、そしてそれに応答したうえで、それにふさわしい生き方をすることです。特にこの箇所では、イスラエルの人々は悪かったけど自分たちは大丈夫ということではなくて、どんな人も、自分のことを振り返って神様の望んでおられる生き方をしないといけませんよということが言われています。もちろん救いも裁きも、最終的には神様にゆだねるしかないことです。しかし、私たちは神様の招きに答えてこうして教会に集っているわけですから、その恵みのありがたさを改めて思い起こして、いつも信仰を新たにしていきたいと思います。
フィリピ の信徒への手紙4章1~9節
1だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
2わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。 3なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。 4主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 5あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 6どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
8終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。 9わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
今日は第二の日課、フィリピの信徒への手紙の内容にも少しふれておきたいと思います。思い煩うことをやめて、感謝と祈りを捧げ、求めているものを神様に正直に打ち明けなさいということが語られている箇所です。フィリピの信徒への手紙はパウロがフィリピの教会に宛てたものですが、パウロの言葉からはこの教会が大きな思い煩いの中にあったことが伺えます。最初にパウロは二人の女性に言及していますが、これは教会の中で何らかの役職を担っていたエボディアとシンティケという人が、何らかの理由で仲たがいしていたことでこのような書き方がされているのであろうと言われています。しかしどちらかが特別悪いということでもなかったのでしょう、パウロはどちらの味方をするでもなく、ただ主にあって一致することを求めています。誰が悪いわけでもない、むしろ教会の運営に責任を感じているからこそ、お互いに意見の相違が生まれて、こうやって誰かがとりなしてくれないと溝が埋まらないまでになっている。いかにも起こりそうなことです。パウロは彼女たちに一致を勧めたうえで、「真実の協力者たち」要するに他の教会員に二人をサポートすることをお願いしているのです。
その上でパウロは言います。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」喜びなさいとかわざわざ言われるのは、たいてい喜んでいない時です。うれしい時や楽しい時は言われなくても喜びます。しかしそれどころではない時、思い煩いだらけで疲れ切っている時、そんな時こそ主においての喜びを思い出しなさい、すべては神様の御手のなかにあって、神様から見れば絶対大丈夫だということを思い出しなさいとここでは言われているのです。そしてそれは可能なことです。「主はすぐ近くにおられる」からです。どんなに思い煩う時も、神様はすぐ近くにおられ、救いの手を差し伸べようとしてくださっているのです。
今日この箇所を取り上げたいと思ったのは、私自身が教会のことで色々と悩んで思い煩いの時を過ごしているからです。小倉教会は今、思い煩いのときを過ごしているのではないでしょうか。PCB(廃棄物処理)の件では行政から理不尽と思える金額の処理費用を請求されて、しかも実は補助金申請が難航していて先週は担当者と口論になったり…。牧師館の改修のことも資金面で苦しいのはもちろんのこと、小倉教会や北九州地区の将来のことを考えないとそもそも判断ができないですし、でも考えれば考えるほど明るい話題ではなくなっていくし…。直方教会でも台風でステンドグラスが壊れて、これは幸いなことにすぐに修理してくださる方があらわれたのですが、でも最初は窓をふさいで壁にするしかない可能性もあって、本当にどうしようかと思いました。
そういう時にこういう聖書の箇所にあたると、改めて祈ること、感謝すること、喜ぶこと、そして神様に望みを打ち明けることの力を感じます。一生懸命考え始めるとかえってそのことで正直に祈れなくなるような感覚ってありませんか。私は実はそうです。お金がないってなった時に、じゃあどうやってお金を工面しようかということは必死で考えるけど「神様お金ください」って祈ることはしなかったりします。感じの悪い担当者に当たった時に、相手にどうやって言い返してやろうかということは一生懸命考えるけど「神様この人嫌です助けてください」って打ち明けることはしなかったりします。で、礼拝の時になると隣人のためとかこの世の中のためとか言って祈ってるんですよ。それももちろん本心なんですけど、でももっと深いところの本心を打ち明けずに祈っていると、祈りが空しくなってきます。
しかし思い煩った時こそ祈ろう、感謝しよう、喜ぼう、神様にすべてを打ち明けようとパウロは訴えます。パウロは何も考えなくていい思考停止しようと言っているわけではありません。そうではなくて、考えている時こそ祈ろう、と言っているのです。そんな時こそ祈りが深まり、今まで感謝できなかったことに感謝出来るようになって、いったいどこにいるんだと思っていた神様が、すぐ近くにおられることに気付くからです。フィリピの教会は真面目に教会のことを考えるからこそ、役職者が仲たがいをしたり、思い煩いでいっぱいになっていました。パウロはそんな真面目さを知ったうえでなお呼びかけます。それでもあなたたちは喜びなさい、祈りなさい、感謝しなさいと。それは彼らの信仰が深まるチャンスであるからです。思考しすぎていっぱいいっぱいになってしまったときにこそ、祈りのもたらす平安や、神様にゆだねることのよろこびを、より深く味わうことができると言っているのです。私たちの教会も色々なことを真面目に考えて一生懸命思い煩う時を過ごしています。そんな時をこのみことばと共に歩んでいきたいと思っています。
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