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Writer's picturejelckokura

神様からの預かりもの

2020年11月15日 聖霊降臨後第24主日

マタイによる福音書25章14~30節


マタイ 25:14~30 (新49)

14「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 15それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、 16五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 17同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 18しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。 19さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。 20まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 21主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 22次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 23主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 24ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 25恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 26主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。 27それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。 28さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。 29だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 30この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」


宗教改革主日、全聖徒主日が終わって聖霊降臨後の日課に戻ってまいりました。月末には待降節が始まります。教会の一年は待降節から始まりますので、今私たちは教会の暦の上では一年の終わりの時を過ごしていることになります。教会暦の締めくくりであるこの時期に、毎年どういう聖書箇所が読まれているかみなさんはご記憶でしょうか。今の時期、教会暦の終わりにあたる時期には、終末に関する聖書箇所が日課として選ばれています。ですから私たちは先週、今週、来週と3週間にわたって終末ということについて聖書から聞いてまいります。終末の話を聞いて心が楽しくなる人はあんまりいないと思いますが、でもこれは忘れてはいけないこと、一年に一度必ず考えるように促されているテーマです。


聖書には、終末、再臨、裁きといったテーマが多く登場します。特に旧約聖書の預言者の時代、そして新約聖書が書かれた時代、ユダヤ教・キリスト教の人々は非常に切迫した終末意識の中を生きていました。この世の終わりはすぐに、明日にでもやって来て、その時世界は一変し、人間は救われる人と裁きを受ける人に分けられると深く信じていたのです。その背景には社会の混乱がありました。戦争や災害が多発する中にあって、これを終末の前兆ととらえた人が多くいたのです。そして聖書には終末というテーマが繰り返し語られることになります。終末はいつ来るのか、その時誰が救われるのか、救われるためにはどうすればいいのか、といったことが非常に大きな関心事だったからです。


今日の聖書の箇所では、主人から財産を預かった三人の僕(しもべ:従者、使用人)たちが描かれています。主人が長旅に出るというので、三人の僕たちはそれぞれの力に応じてお金を預かります。それぞれ五タラントン、二タラントン、そして一タラントンです。一タラントンは今の日本円で約6000万円だそうですから、一番力のない僕でさえもかなり大きな金額を預かったということがわかります。最初の二人の僕は、主人の旅行中、そのお金を元手にそれぞれ商売をしてひと儲けしました。しかし一タラントンを預かった僕はそれを失うことが怖くて財産を地中に隠しておきます。そして主人が帰ってきたとき、お金を活用した二人の僕は主人に喜ばれて、何もせずお金を隠しておいた僕は主人に叱られて追い出されてしまうというお話です。


このたとえは様々に解釈することができますが、しかし今日の日課を通して示されている終末という文脈から見るならば、主人が帰ってこられる時、つまり再臨と終末の時はいつくるかわからないのだから、その時まで私たちは忠実に備えて、神様のために働かなければならないのだ、ということが言われています。主人である神様は必ず帰って来られるのだから、その時まで私たちは神様から預かった物を活かして増やさなければならない、何もしないでいるのでは足りないという警告です。先週の「十人のおとめのたとえ」では終末を自覚して備えていないことの愚かさが言われていましたが、今日のこのたとえでは、僕たちはみな、いつか主人が帰ってくる(終末が来る)ということに自覚的です。つまり、終末を意識して備えるだけでなく、さらに精いっぱい働かなければならないということが言われています。結構厳しいですね。


いつやってくるのかわからない終末に常に備えていなければならないということ。終末はいつか必ずやってきて、私たちはみなそれぞれの行いに応じて裁かれるということ。これは聖書が確かに語っていることです。特に初期の教会ではこのようなことが繰り返し教えられていたと言われています。終末がいつやってきてもいいように、終わりの時に慌てたり後悔したりすることのないように、忠実にその日を待とうね、お祈りと奉仕を頑張ろうね、とお互いを励ましあっていたのです。この世の終わりが明日にでも来るかもしれないと真面目に考え、終末の到来をいつも心に留めていました。


しかし一方で聖書が語るのは、終末は必ずやってくるけれども、その日をいたずらに恐れることはないということです。それは、イエス様が必ず私たちを顧みてくださるからです。イエス様がおられるから大丈夫、みたいなこういう話はみなさんもう百回ぐらい聞いたと思いますが、それでも人間に言えること、人間に語れる慰めはそれしかないのです。今日の第二の日課、テサロニケの信徒への手紙においてパウロはこう書いています。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。」イエス様が来られたことにより、私たちには救いが約束されている、だからといってサボる必要はないけれども、安心してその時を待とうというのです。終末はいつ来るのか、その時誰が救われるのか、救われるためにはどうすればいいのか、といったことを考えると私たちは怖くなります。しかしパウロが勧めた生き方はそういうものではありませんでした。イエス様による救いを信じて、なおかつ終末に対して備えて過ごそうということをテサロニケの教会に向けて語っているのです。


終末は必ず来ると聖書は語ります。それは定められたときにただ来るものであり、人間がはかり知ることのできない、神様の御計画の一部です。救いも裁きも、私たちが関与することのできないことがらですが、聖書は、せめて目を覚まして、いつか終わりの時が来るということを忘れず生きるようにと私たちに促します。そしてそれを、恐れからするのではなくて、神様への信頼のうちにするように。いたずらに不安をあおるのではなくて、イエス様の救いを信じて終わりを待つように。そうやって私たちは過ごしていきたいと思います。

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