本日の礼拝では笠井春子神学生に説教をしていただきました。
2021年11月14日 聖霊降臨後第25主日
マルコによる福音書13章1~8節 「神を思い起こす」
福音書 マルコ13: 1~ 8 (新88)
13:1イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 2イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
3イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。 4「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」 5イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 6わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。 7戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 8民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
わたしたちの神と、主イエスキリストから、恵みと平安とが私たちにありますように。アーメン
ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの4人のイエス様の弟子が「そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」と尋ねました。そのこと、それは終末、この世界の終わりの日のことです。この問いに対してイエス様は、「人に惑わされないように気をつけなさい」という言葉をもって、この世の終わりに何が起こるかを話し始めます。
イエス様は、様々な悲惨な出来事が起こることは、「産みの苦しみの始まりである」と言います。産みの苦しみとは、直訳すれば陣痛です。
私たちは、何かを産み出すときに苦しむことがあるでしょう。何かを作ったり、建物を建てたりする時もそうです。新しいアイディアを考え出すとき、文章を一から書く時、食物を育てるにしても大変な苦労が伴うものです。この世において、何かを生み出すときには必ず苦しみがあるのです。
聖書のはじめ、創世記の物語では、神様が食べてはいけないと言われていた果実を、アダムとエバは食べてしまいます。このことのために、神様は二人を楽園から追放します。この時、神様が「産みの苦しみが起こる」とエバに告げます。これを聞くと、産みの苦しみとは、神様から人間に与えられた罰のように思えます。産みの苦しみとは、私たち人類に与えられた罰なのでしょうか。
今日の福音ではイエス様は終末について語っていますが、イエス様が言われたような、戦争や、地震や、飢饉は、もうすでに起こっていることです。すでに私たちは苦しみの中で生きています。今もどこかで、争いによって傷つき、食べるものがなく飢えて失われている命があるのは確かです。また、コロナウイルスのことで、私たちは混乱し、苦しみを感じることもあります。この苦しみは、神様からの罰だと聖書は言うのでしょうか。イエス様が言いたいのは、決してそのようなことではありません。
産みの苦しみ、それはただ苦しいだけで終わるものではありません。何かが生まれるということは、苦しみの先に新しいことやものが存在しているということです。そこには喜びがあります。
イエス様が弟子たちに言っている苦しみとは、新しいものが生み出されるために必要な苦しみなのです。新しいもの、それは、神様の救いです。誰一人として苦しむことのない神様の愛に満ちた世界が、終わりの時にやってくるのです。
しかし、そもそもなぜ、新しいものが生まれる時に、私たちは苦しまなければならないのでしょうか。生きていく上で苦しみというのは必ずあるものでしょう。避けては通れない苦しみを、なぜ私たちは味わわなければならないのでしょうか。
苦しく、辛く、悲しい時、私たちが感じるのは無力さであろうと思います。なんでこんな目に合わなければならないのかと、理由も分からずに打ちのめされる時、どうにも出来ない現実で自分自身の無力さを知ります。どうして自分はこんなことしか出来ないのだろう。なんでこうしなかったのだろう。そのような思いになることがあります。こうした思いにとらわれていると、まるで私という存在は価値のないもののように感じてしまうかもしれません。
けれども、こうした自分の無力を知った時にこそ、私たちは、人間は神ではないと知るのだと思うのです。自分の無力さを知るということは、自分自身をよく認識することです。自分自身が、人間であると知ることなしに、神様を知ることは出来ません。神様の恵みをいただく喜びを知ることも出来ないでしょう。新しいものが産まれる時に私たちが苦しむのは、苦しみの先ではじめて、神様のことを思うことが出来るからです。
苦しみを通して、はじめて神様を知ることが出来る。パウロは、苦しみも神様から与えられた恵みだと言います。私たちは苦しい時ほど、神様を強く求めますし、切実に祈る者であると思います。逆に言えば、何の苦しみもないところでは、私たちは神様のことを忘れてしまうということです。嬉しい時や喜ばしい時に、神様に感謝することも、もちろんあると思います。片時も神様を忘れることはないという方もおられると思います。でも、この世では、最早神様を必要としない、神様がいなくても生きていけると、そう考える人も多くいます。それは、ただ苦しみがないからだけではなく、神様に頼らなくても、人間だけでなんとかなるという思いが、私たちの内側に潜んでいるからではないでしょうか。
私たちは、そのように神様を必要としない世にあっても、苦しみの中で、神様を思い起こしていきます。神様を思い起こせるのは、信仰を与えられた人です。イエス様は「惑わされないように気をつけなさい」と言います。私たちは、自分がどれだけ無力であるかを知っている者でしょう。だから、今こうして礼拝へと招かれて、惑わされることのないようにとみ言葉に耳を傾けているのです。
しかし、信仰を与えられて、苦しみの先に、神様と共に生きることが出来るという約束があるのだと知ったとしても、今ある苦しみが消えるわけではありません。苦しい時、辛い時、痛みの経験を通して、自分を知り、神様を知っていくとしても、そんな経験はない方がよっぽど良いと誰でも思うのではないでしょうか。苦しい時には、神様を思うことすら難しいものです。また、イエス様が言っているような、戦争や地震や飢饉、そんな中で傷つくのは、小さい人や、貧しい人達です。傷ついている人々に対して、「それは神様の恵みだ」と、そんな風に言うことは決して許されないと思います。
では、私たちは苦しみの時に、何を見ていくのか。私たちが見ていくもの、それは、キリストの十字架はないでしょうか。何よりも理不尽で、無力であった、あのキリストの十字架です。
神殿を見て、弟子の一人は素晴らしいと言いました。神殿は立派で、美しいものだったのでしょう。そんな弟子に対して、その神殿は壊れるのだとイエス様は言いました。イエス様自身もまた、苦しみの道を歩かなければならないことを見据えていたのでしょう。キリストが十字架にかけられた時に、弟子たちがうろたえることなく、苦しみを越えて、新しいものに触れることが出来るように、新しいものが産まれる前には、苦しみがあるのだと、ここではっきりと言われるのです。
私たちは、苦しみと共にあったイエス様を知っています。私たちが、この世にある苦しみを、神を思い起こす恵みとして受け入れることが出来るのは、イエス様も同じように、十字架で苦しまれたのだと、知っているからです。
そして、苦しみの先で、喜びの時が訪れることも私たちはすでに知っています。神様はイエス様を十字架で見捨てたのではありません。イエス様は復活しました。このことを私たちは信じています。
マルコ福音書の13章は、一貫してこの世の終わりの時には苦しみがあるのだということが書かれています。その中でイエス様は、何度も「気をつけなさい」「目を覚ましていなさい」と弟子たちに呼びかけます。苦難の向こうに、必ず救いがあるのだから、気をつけて、目を覚ましていなさい。イエス様は、全ての人を、苦しみを越えた先で、神様と共に生きることが出来るという福音へと招きます。
苦しい時にこそ、私たちを見捨てることのない神様を思い起こしていきたいのです。
神学生になり、説教をさせていただく機会も増え、説教を書くという、一つの産みの苦しみを感じることも多くあります。私が説教を生み出すのに苦労するのは、私が神様ではないから、私が人間だからです。人間である私には、神様の言葉を解き明かしすることにも、限界があります。なぜこんなに書けないのだろうという無力さに打ちのめされながらも、神様に祈ることで、なんとか少しずつ進んでいる私がいます。
私たちは、無力な自分を神様の前に晒し、主に求めて生きていくことが出来ます。それは決してみじめなことではなく、神様と共に生きる恵みです。たとえどんな苦しみに襲われたとしても、私たちは神様を思い起こして、生き続けていきます。苦難の先で、キリストの救いという新しい喜びに触れる時を、待ち望む者でありたいのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守りますように。アーメン
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