2021年10月3日 聖霊降臨後第19主日
マルコによる福音書10章2~16節
福音書 マルコ10:2~16 (新81)
10:2ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。 3イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。 4彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。 5イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。 6しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。 7それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 8二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 9従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 10家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。 11イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。 12夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
13イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 14しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 15はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 16そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
今日からまたこうして礼拝堂に集ってみ言葉を聞けることをうれしく思います。聖書は先週の続きです。カファルナウムから南に移動されたイエス様は集まった群衆に対して教えておられます。そこへファリサイ派の人々がやってきて、こんな質問をしました。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」という質問です。離縁をすることは律法違反ではありません。申命記24章1節には「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」と記されていて、この規定のことを律法の教師である彼らが知らないはずはありませんでした。
しかし一方で、この律法をどう解釈するか、何が「恥ずべきこと」(離婚理由)にあたるかということについては当時様々な議論がありました。律法学者たちの中には離婚に比較的寛容で、些細なことでも離婚を許可したグループもあれば、不貞があった時のみ離婚を許可したグループもありました。またどんな理由があっても離婚や再婚を認めないというグループもありました。本来申命記24章の律法は、理由のない離縁、書類作成を伴わない離縁を禁じるものです。(離縁状はその女性の結婚生活が終了していることを公的に証しするもので、それを持っていないと女性は再婚をすることができませんでした。)安易な離縁を禁止することで女性を保護することを目的としたこの律法でありましたが、時代が下るにつれて、どうやったら合法的に離縁できるのか、どうやったら合法的に新しい妻をめとることができるのか、ということに男性の関心が集まった結果、このような論争に発展していったと言われています。(「男性の」と限定的に言ったのは、他の多くの古代国家と異なり、ユダヤでは男性のみが離縁する権利を持っていたからです。)
このような問いに対して、イエス様は「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されます。ファリサイ派の視点が、いわば「人はどこまでなら好きにしていいのか、どうすれば許された限界内で自分に都合よく振る舞えるのか」というものだったのに対して、イエス様の視点はそもそも神様が何を語られたかというところにあるのです。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えた彼らに対して、イエス様は「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」と話し、離縁を奨励することが本来の律法の意図ではないということを言われます。先ほど申し上げたように、この律法は安易な離縁を促すものではなくて、様々な事情に応じて、女性が保護された状態で離縁することを教えるものだからです。
さらにイエス様は創世記を引用して結婚について語られます。なぜなら、神様が結婚に何を望まれたかを考えることが、この問題を考える出発点になるからです。確かに、どこまでだったら人間の好きにしていいかを考えるよりも、本来神様が何を望まれたか、また神様の望まれた通りにできなかったとしたらどこに反省点があるのか、ということを考えていった方が、信仰上よほど健全です。イエス様は結婚には神様の意志が働いているとお教えになり、結婚をあくまで人間同士の出来事と捉えようとするファリサイ派の人々の視点を修正されました。
こうしてイエス様はファリサイ派の人々の悪意ある質問を斥けます。ファリサイ派の人々は、イエス様が離縁を否定するという予測を持ってイエス様に質問をしたのでしょう。そして、イエス様の答えと離縁を許可している申命記の規定との矛盾を指摘して、イエス様を板挟みに追い込むつもりだったのです。しかしイエス様の話が結婚の本来の在り方にまでさかのぼったために、彼らの企ては失敗に終わりました。
続いての場面では、人々がイエス様に触れていただくために子どもたちを連れてきます。イエス様に祝福してもらおうと集ったこの人々を弟子たちは叱りました。ただでさえ忙しいイエス様をさらに煩わせることになると思ったのでしょう。弟子たちにはまた、子どもたちはイエス様の話を理解できないから、連れてきても邪魔になるだけだという思いもありました。当時の社会で子どもは「未完成の大人」「何もできない者」に過ぎなかったからです。しかしイエス様はそんな弟子たちに対して憤り、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と言われます。子どもが子どものままで、つまり律法を理解しないままで神の国に入ることができるというイエス様の教えは、弟子たちにとって驚くべきものでありました。
イエス様はさらに子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されます。子どもを子どものまま受け入れ、無条件に祝福されたのです。イエス様は子どものように神の国を受け入れなさいと言われます。これまでの場面で大人たちは、誰が一番偉いかを比べ合ったり、離縁の条件についてあれこれ議論したりしてきました。そんな彼らよりも、これらの小さな子どもたち、何も持たず何も考えず、ただイエス様のもとに来る子どもたちのほうが神の国に相応しいとイエス様は言われたのです。
今日の礼拝では、「離縁について教える」「子供を祝福する」の二つのエピソードを読みました。子どもたちがありのままでイエス様に受け入れられている姿と、色々なことを知っているがゆえに余計なことを考えてしまう大人たちの姿がありありと対比されていたのではないでしょうか。でも生きていれば大人になるのは避けられないことで、イエス様が抱き上げた子供だってきっと10年や20年もすれば結婚や離婚で悩むようになるんだと思います。誰しも大人になることからは逃れられないのです。
大人になって生きていくというのは大変なことです。最初はみんな子どもで、何の区別もなく、何もしなくてもただ神様に受け入れられる存在だったのに、だんだん成長するにしたがって「男」「女」という区別の中に入れられて、さらに「結婚している人」「独身の人」「離婚した人」という区別をつけられて、それぞれどっちが得か、どっちが正しいかと考えるようになります。でも本当はどんな立場の人でも別にそれで良くて、結婚している人はそのまま神様に感謝して暮らせばいいし、独身の人だってイエス様は別の箇所で結婚しないことを肯定してくださっていますし、離婚についてもあれこれ書いてはいるけど大前提として律法で許可されているということは揺るぎのない事実です。もちろん今日の話によれば、離縁というのは心が頑固になって起こることで、神様が本来望まれたこととは違うとも言われています。でも離婚してなくても人の心はみんな頑固です。私たちは離婚以外にも神様の望まないことをたくさんしています。神様の望まないことをしてしまったら人として終わりとかそういうことではなくて、それぞれ事情があるわけですから、神様に祈って、悪かったと思うことは反省して赦しを求めればそれで大丈夫です。
イエス様が抱き上げた子どもたちは、自分が正しいかどうかを気にすることなくイエス様の胸に飛び込むことができたんだと思います。私たちもそんな頃に戻りたいなあと思いますが、でも大人になってさまざま経験をする中で、神様のありがたさを実感することもきっとあるはずです。大人は、人は完璧に正しく生きられないということを知っています。自分の不完全さを知って、神様に赦されるということのうれしさをより深く感じることができます。そうやって地上の日々が終わる時までなんとか歩いて行くのだと思います。ですから私たちは罪人同士許し合って、共に神様の方を向いて、日々反省と感謝をしながら生きていきたいと思います。
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