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目を覚ましていなさい

2023年11月22日 聖霊降臨後第二十三主日

マタイによる福音書25章1~13節


福音書  マタイ 25: 1~13 (新49)

1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」


宗教改革主日、召天者記念礼拝を終えて、聖霊降臨後の日課に戻ってまいりました。今日からは再びエルサレムでイエス様が教えられたことを聞いてまいります。イエス様はエルサレムに入られた後、数々の論争を経験され、ご自分と敵対する人々に悔い改めを説かれました。それが10月から読んできた20章以下の内容です。そうしてイエス様は一通りの論争を終えられた後、24章からは終末的な預言を数々の言い回しで教え始められます。今日の日課となっている「十人のおとめのたとえ」はその一部です。


イエス様は今日の福音書の物語において、天の国を婚宴にたとえておられます。婚宴に限らず祝宴というのは、来るべき神の国で神と人とが共にいることをあらわす典型的なたとえです。その婚宴にあたって「十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」とイエス様は言われます。当時の結婚式は数日にわたって行われ、それは夜になっても続きました。「おとめ」は未婚の女性を指す言葉ですが、彼女たちは花嫁ではありません。古代イスラエルは原則として一夫一婦制ですから、花嫁が十人もいるというのは不自然です。おそらくは花嫁の友達や付添人で、花婿と共に宴会に招かれるゲストであったと考えられます。


そういうわけで、十人の少女たちが、花婿が到着して宴会が始まるのを待っていたわけですが、彼女たちのうち「五人は愚かで、五人は賢かった」と書かれています。愚か、賢い、という言葉は、ここでは先を見通す目があるかどうかという意味で使われていて、別の訳である口語訳では同じ言葉が「思慮の浅い女」「思慮深い女」と訳されています。そのことは「愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。」という記述からもわかります。彼女たちはランプに灯りを点けて待機していましたが、愚かなおとめたちはそのランプに追加で注ぐ油を持っていなかったということです。


それに対して、賢いおとめたちは思慮深いので、ランプと一緒に壺に油を入れて持っていました。そのような状況の中、花婿の到着が遅れに遅れます。この物語において十人のおとめが意味しているのは「二種類の人間」、花婿の到着が意味しているのは「キリストの再臨」です。最初期のキリスト教徒たちは、イエス様がすぐにでも世界の審判に現れ、再臨して自分たちを神の国に招き入れてくださるだろうと信じていましたが、実際には彼らの時代にはそれは起こりませんでした(今も起っていません)。そういう「待ち」の状況下で信仰者は何を心がけるべきかことをこのたとえは語っているのです。


いつまでたっても現れないと思われた花婿はしかし、真夜中に到着します。同じように、イエス様の再臨は、いつまでたっても起らないからといってなくなったわけではありません。人間が期待したよりも遅れてはいるが、それは必ず起こるということが言われています。花婿の到着を知らせる声を聞いて、おとめたちはそれぞれのともし火を整えました。「ともし火を整える」とは、芯を調整する、油を注ぎ足す、などの行為を指しています。


ここで愚かなおとめたちは油が足りなくなっていることに気付きます。そして賢いおとめたちに油を分けてくれるようにと頼みました。しかし賢いおとめたちに「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」と言われてしまいます。教会学校でこんなことしたら「なんでお友達に分けてあげないの!」とか言われて怒られそうですが、まあたとえ話なのでそれは置いておきます。そして状況を考えれば賢いおとめたちの返答は決して意地悪なものではありません。婚宴の時には村中みんな起きていますから、この日だけは真夜中であっても油を手に入れることができたでしょう。実際に愚かなおとめたちは油を買いに出かけています。


しかし愚かなおとめたちが店に行っている間に花婿が到着し、会場の戸が閉められてしまいます。外に取り残されたおとめたちは戸を開けてくれるように頼みましたが、扉が再び開かれることはありませんでした。イエス様はこのたとえを締めくくって「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」と言われます。神様の救いの決定的な瞬間はいつ来るかわからないのだから、日々神様に心を向けて信仰深く歩みなさいと教えておられるのです。


イエス様は「見よ、私はすぐに来(く)る。」(黙示録22:7)と言われていますが、実際にはイエス様の再臨はまだ起こっていません。だからと言ってイエス様が嘘をついているかとそうでもなくて、これは私の考えですが、神様の「すぐ」と人間の「すぐ」はすごく違うからだと思います。80年ほどの命を生きる人間からすると、永遠を生きておられる神様の「すぐ」は永遠のような長い期間に感じるのでしょう。人間にとっては「すぐ」とは言えない約束の時は、神様にとっては本当に「すぐ」なのでしょう。ですからイエス様はいつか必ず、お約束通り再びこの世に来られるのです。


そんな中で書かれたこのたとえ話は、私たちが再臨を待つ間にするべきことを教えてくれます。それは、長い待ち時間の中にも、来るべき時に向けた用意をしていることです。信仰の火が消えないように、予備の油を用意して待っていることです。そうやって、長い待機時間を忠実に耐え抜くことが求められているのです。再臨は私たちにとって大きな神秘で、神様にとっての「すぐ」が人間にとってのいつなのか、私たちには見当もつきません。そんな中にあっても、私たちは信仰の火を絶やさずにつないでいきたいと思います。

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