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父と子と聖霊

Updated: Oct 7, 2020

2020年6月7日 三位一体

マタイによる福音書28章16節~20節


16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

今日は三位一体(さんみいったい)の主日です。三位一体はキリスト教の最も重要な教義の一つで、父、子、聖霊がそれぞれ真の神であり、なおかつただひとりの神であるということを指しています。しかしながらこれは人間の理解や想像力を超えた神の在り方であって、なかなか腑に落ちない部分も多いのではないでしょうか。三位一体について、古来様々なたとえがなされてきましたが(水の三形態とか、ひとりの男性が同時に息子であり夫であり父親であるとか、クローバーの三つの葉とか)、これらはいずれも厳密には誤りであると言われています。(ただしそれは神学的な三位一体の定義と一致しない部分があるというだけで、三位一体という概念に親しむためには大いに役に立つと思います。)ここまで聞いてすでに諦めそうになっている方もいらっしゃるかと思いますが、今日は三位一体の主日ですので、もう少しこれについて考えてみたいと思います。


「三位一体」という言葉は、聖書には一度も登場しません。しかしながら、一般的に三位一体の根拠として用いられる聖書の箇所が二つあります。先ほどお読みしたマタイ福音書の28章19節(父と子と聖霊の名によって洗礼を授け)、そして今日の第二の日課、第二コリントの13章13節(主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように)。いずれも父・子・聖霊が並列に語られていて、聖書のなかでこの二つの聖句だけが、一見して三位一体を表わしている聖書の箇所です。さらにぼんやりと三位一体を指し示すような聖句が複数あって、例えば今日の第一の日課は創世記でしたが、ここで神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われています。唯一の神である創造主は自らを指して「我々」と言っているわけです。この言葉は子と聖霊は創造のはじめから父と共にいたという教えの根拠となってきました。


聖書には「三位一体」という言葉が見られないということを申し上げましたが、しかしながら、それによって三位一体そのものが否定されるわけではありません。なぜなら、聖書全体が三位一体を証言しているからです。三位一体はそもそも、父・子・聖霊がそれぞれ神で、なおかつ一つの神であるということを表しています。聖書を見てみましょう。父なる神は神です。神はこの世を創り、イスラエルの民をエジプトから救い出されたお方です。子なるキリストは神です。神は人となり、私たちの救いのために十字架で死んでよみがえられたお方です。聖霊なる神は神です。神は私たちに降って私たちを新しくされる方、私たちに賜物を与えてくださるお方です。そして神はただお一人。「わたしをおいてほかに神があってはならない」と神は言われます。これらのことはいずれも、神様が聖書を通して私たちに示してくださったことがらであり、これらの要素を総合すると、神は三つで一つであるということがおぼろげに浮かび上がってきます。


三位一体はまた、教会が教義を発展させる中で一生懸命考えて獲得してきた、神についてのひとつの説明です。ユダヤ教の時代から、「神は唯一である」ということ、そして「父なる神は神である」ということが広く理解されてきました。時代が下るにつれて、「子なるキリストは神である」ということ、「聖霊なる神は神である」ということもそれぞれ確かだということが確認されて、じゃあ父も子も聖霊も神で、なおかつ神が唯一であるということは、それはどうやって説明すればいいんだ、父と子と聖霊の間にはどういう相互関係があるんだ、ということで探求されていったのが三位一体という概念でした。長い年月にわたって議論され、色々な人が少しずつ違うことを言ってきた三位一体ですが、ここでは「神によって啓示され、キリスト者が継続して経験してきた、神の在り方」であると言うことにしようと思います。人間の目には区別があるように見えながらも、分かたれることなく一致して働かれる神の姿です。


三位一体について考える時、人は神のことを完全に理解することはできないということに気付きます。神は三位一体という人間の理解を超える形で存在しておられるのです。「三つであり一つ」「区別されるが分かたれることはない」と言われても、人間がそれを具体的に心に思い描くというのはほとんど不可能なことだと思います。しかしなぜか神はそのようなやり方でご自身をあらわされました。知らなくていいわけじゃないけどすべてを知ることはできない。神と人間との微妙な関係です。三位一体について、よくわからないんだけど大事なことに違いないから知りたい、という営みを教会は続けてきたわけです。


神を知ろうとする長年の営み。そういう営みの中に私たちもまた立っています。何千年も続けられた教会の歩みの中に、今私たちは加わっているのです。もちろん、聖書を「自分のこととして」「明日役立つような」読み方をすることはとても大切です。しかし同時に、私たちはこの社会の中で、歴史の一部分として生きているわけですから、そういうことも時には感じる必要があるでしょう。聖書のメッセージは、自分のことだけ、今日明日のことだけに目を向けさせるものではありません。私たちは信仰を受け継ぎ、教会を受け継いでいます。過去や未来の信仰者たちと無関係には存在していないのです。三位一体を「自分のこととして」理解して、「明日役立つような」何かを得ることは難しいかもしれませんが、「何千年も神を知ろうと祈り努めてきた信仰者の群れにつながっていること」を実感するにあたって、三位一体はふさわしいテーマであると思います。


神は三つであり、一つであるお方。父なる神は神であり、子なるイエスは神であり、聖霊なる神は神であり、そして神は唯一のお方です。それが、すなわち、三位一体です。神はこのような在り方で私たちにご自分をあらわされました。この神秘を自然に心に思い描くのは難しいことですが、キリスト教徒はそれでも、この三つで一つの神を信仰してきました。そして今日ここで礼拝する私たちもそのひとりです。父、子、聖霊の神に栄光がありますように。

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