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悔い改めよ

2021年12月12日 待降節第3主日 ルカによる福音書3章7~18節 福音書  ルカ3: 7~18 (新105) 3: 7そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 8悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 9斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」 10そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。 11ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。 12徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。 13ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。 14兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。 15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 18ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。 待降節の第三主日を迎えました。先週の続きを読んでまいります。ザカリアの子ヨハネは、イエス様のお生まれを告げるしるしとして世に現れ、ヨルダン川沿いの地方一体で悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。そこでヨハネは洗礼を授けてもらおうとして出てきた群衆に「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」と警告します。神が裁きを行われる時は近いというのです。ヨハネは続けて「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」と語ります。この話を聞いていた人のほとんどはユダヤ人でしたが、ユダヤ人という神に選ばれた民族であろうと、悔い改めないならば、神の怒りを免れることはできないとヨハネは告げるのです。あなたがたが悔い改めないならば、神は自ら新しい民族を選び、最初にイスラエルに与えた約束と同じ約束を与えることがお出来になるとまで語っています。 さらにヨハネは「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と語ります。ヨハネは終末が迫っていることを人々に思い起こさせ、悔い改めてよい実を結ぶように勧めるのです。良い実を結ばない木には裁きが用意されています。しかしこの時点で方向転換をするのに遅すぎるということはありません。今はまだ悔い改めの時、自分が方向転換をしたことを、実生活を通して証明する時であるというのです。ですからみなさんこの機会によく考えて、改めて神様に心を向けて生きていきませんか、とヨハネは呼びかけています。 ルカ福音書のユニークな点は、ここから洗礼者ヨハネと群衆との質疑応答が始まるところです。ヨハネは群衆の質問に答え、徴税人と兵士たちの個別の質問にも答えていきます。その様子からは、悔い改めた後の信仰生活にはその人に応じた個別のアドバイスが必要であることがわかります。ヨハネはここで、信仰的実践として一般的であった祈りや断食について一切言及していません。むしろ、それぞれの人に応じてより具体的な生活態度を指導しているのです。洗礼を受けた人それぞれが、神がその人に望んでおられることを日々の生活の中で行うことが大事だと考えていたのでしょう。 ヨハネはまず一つ目の質問(そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた)に答えて、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と語ります。これは基本的には、同じようにヨルダン川に洗礼を受けに来た隣人を念頭においての発言であると考えられます。人々はヨハネから洗礼を受けるためにヨルダン川を目指しましたが、そこは人里離れた荒れ地で、夜は寒く、食べるものを調達することも困難でありました。そこで通常、人々は夜の寒さから身を守るために二枚の下着を着て、行き帰りの十分な食料を持って旅をするのですが、中にはそれらの必需品に事欠く人も混じっていました。ヨハネはそのことを指して、こうして悔い改めて洗礼を受けたならば、隣にいる人が困っていれば自分のものを分けてあげましょうと教えています。この教えを全世界から貧困をなくしましょうという話に解釈することもできますが、少なくともまずは足元から、今近くにいる人に対して誠実に接しましょうという教えであったと言うことができます。 次に登場するのは徴税人です。徴税人たちはヨハネから洗礼を受けた後、ヨハネにアドバイスを求めます。徴税人とは国家や封建領主から税金を集める仕事を請け負った人のことで、近代になって税務署が登場するまで税徴収の役割を担っていた職業です。徴税人という職業は、市民から正規の税に上乗せして高額な手数料を取り、私腹を肥やす者が多かったことと、税金を払えない人間に対する懲罰権を持つ場合が多かったことから、おおよそどの文化圏でも悪人の代名詞のような扱いを受けていました。聖書に登場する徴税人は、ローマ帝国に納める税金をユダヤ人から徴収していた人々を指します。彼らもまた、手数料の取りすぎによって民衆に嫌われ、さらに異邦人支配の手先であるとして、敬虔なユダヤ人からは「罪人」と呼ばれていました。 そんな徴税人たちに対して、ヨハネは極めてシンプルなアドバイスをします。それは「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」というものでした。ヨハネは彼らに仕事を辞めろとは言いません。ヨハネにとってその人が救われるかどうかを決めるのは、その人の職業や肩書ではなく、悔い改めて神の方を向いて生きているかというその一点であるからです。しかし悔い改めたしるしとして、ヨハネは彼らに法律上決められた範囲で働くように勧めます。以後彼らは民衆から搾取して自分自身を肥やすことをやめなければならないということが言われています。 次に登場するのは兵士です。兵士たちはやって来てヨハネに「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねます。当時イスラエルには徴兵制がありませんでしたので、彼らはヘロデ・アンティパスに雇われて職業として兵士をしていたと考えられ、さらに彼らの中には異邦人も混ざっていたであろうということが言われています。(ちなみに同時代のローマ帝国には徴兵制があり、厳しい訓練のもと強大な軍隊が組織されていました。)兵士たちに対するヨハネの答えもシンプルです。「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」ということが言われています。ここでもヨハネはその仕事を辞めるようにとは言わず、ただ自分の給料で満足しなさいということを語っています。兵士たちが力を誇示して人々を恐喝したり搾取したりすることがないようにと勧めているのです。それならひとまず実践してみようと思えような、なかなか現実的なアドバイスです。 人々はこの答えに納得したらしく、彼らは「ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」と書かれています。民衆はメシアを待ち望んでいたので、ヨハネのすばらしい教えを聞いて、彼がメシアではないかと期待したのです。しかしヨハネは「私はメシアではない」ということをはっきりと告げます。そして「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。」「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と語るのです。その方こそ、主イエスです。ヨハネが語った様々な勧めはすべて、私たちがイエス様をお迎えするための備えであることがここで明らかにされます。続けてヨハネは来るべきその方が「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」と語ります。イエス様が来られたら、いよいよ裁きの時が始まるというのです。従って、人々は今のうちに悔い改めて、ヨハネが示したような新しい生き方に入らなければなりません。主が来られるというのはそれくらい大事なこと、イエス様を自分の中にお迎えするということは、私たちの人生における極めて重大な転換点であるのです。 今日の日課は「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。」という記述で締めくくられています。ここに記されているヨハネの勧めはほんの一例であって、ヨハネは会う人に応じて様々な勧めをしていたということが伺えます。そうして洗礼者ヨハネはイエス様が来られるというよい知らせをますます多くの人に告げ知らせたのでした。 ヨハネは人々に「悔い改めよ」と語ります。今までの自己中心的な生き方を反省して、神様に喜ばれる生き方を今日からしよう、そうやってイエス様を待とうと呼びかけているのです。しかし今日の聖書の物語が伝えているのは、悔い改めて新しい生き方をしなければならないのはみんな一緒だけれども、その新しい生き方を具体的にどう生きるかは、人によって違ってくるということでした。信仰生活をどうやって送るかということについては、その人の状況を考慮して千差万別なアドバイスがあるということです。ですから個別の信仰生活については、教会のお仲間や、あるいは牧師と相談しながら、だんだんと答えを見つけていかれることもあるのではないかと思います。 このようにヨハネはやって来る人の状況に応じて様々な勧めを行いましたが、とにかく自分の今いるところから、できることをしていくことが大事というところは共通していました。誠実に仕事をして、今隣にいる人を助けましょうというのがヨハネの勧めのおおまかなところであったと思います。私たちも今日の聖書の言葉から、日々の生活を顧み、自分だったらどう生きようかと考えてみたいと思います。そうして自分と神様の関係に目を向けながら、イエス様の来られるのを待ちたいと思います。


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