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平和に過ごす

2021年9月26日 聖霊降臨後第18主日

マルコによる福音書9章38~50節


福音書  マルコ9:38~50 (新80)

9: 38ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 39イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 40わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 41はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

42「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 43もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 44† 45もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 46† 47もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 48地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 49人は皆、火で塩味を付けられる。 50塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」


先週の続きを読んでまいります。今日の聖書の物語は、ヨハネがイエス様にある報告をするところから始まります。ヨハネは十二弟子の一人で、兄のヤコブと共にガリラヤ湖で漁をしていたところをイエス様に招かれた人物です。ヤコブとヨハネは、おそらくはその気性の激しさから「雷の子ら」と呼ばれており、また10:37ではイエス様に「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」とお願いするなど、色々とお騒がせな兄弟でした。しかしイエス様はしばしばペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人だけを伴って行動されており、イエス様が彼らに目をかけておられたことが伺えます。


そんなヨハネはイエス様に「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」と報告します。勝手にイエス様の名を持ち出して悪霊を追い出している者を発見したというのです。当時の悪霊追放は大天使や預言者の名前によって行われることが一般的で、偉大な預言者とみなされていたイエス様の名前が用いられたとしても不思議ではありません。しかしこの見知らぬ悪霊追放者はイエス様のお名前をいわばおまじないのように用いていたのであって、イエス様を信じていたわけでもなければイエス様の弟子の群れに加わっていたわけでもありませんでした。ヨハネはこのことを不快に思ったのです。


ヨハネの報告に対してイエス様は「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」と言われます。事実イエス様の名には悪霊を追い出す力がありましたし、動機が不純であったにせよ、その力を体験した者がイエス様のことを悪く言うとは考えづらいものです。弟子たちが狭量であるのに対してイエス様は寛大でした。


イエス様はさらに「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」と言われます。弟子たちとは異なり、はっきりと敵対しない人に対して、イエス様は開かれた態度を取っておられます。弟子たちは心のどこかで、自分たちこそが真にイエス様を知る者で、その点において外の人たちよりも優れているのだという思いを持っていました。しかしその内輪志向や特権意識は否定されます。内と外を区別し、自分たちを上に置こうとする弟子たちの態度をイエス様は戒めておられるのです。イエス様はこの話を「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」と言って締めくくられます。キリストの名によってするどんな小さな奉仕も神に喜ばれるのであるから、いちばん偉い者はだれかということを話し合っても意味がないのと同じように、誰がイエス様のお名前を用いるのによりふさわしいかということを議論しても意味がないのです。


その後には罪や裁きに関するいくつかの教えが続きます。これらはもともと独立したイエス様の言葉であったと考えられていて、似たようなテーマを持つ言葉が格言集のような形でここに納められています。まずイエス様は「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」と言われます。「わたしを信じるこれらの小さな者」とは、また素朴な信仰者、目立たない信仰者のことです。新共同訳で「つまずかせる」と訳されているスカンダリゾーというギリシア語は「罠にかける」「誘惑に陥らせる」「怒らせる」という意味を持つ語で、人を罪に誘ったり、人の信仰の道のりを邪魔したりすることをあらわしています。人を惑わせるような行為が厳しく戒められていて、それらの行いに対する罰は厳しいということが言われています。


次にイエス様は「手」「足」「目」という体の一部が、それぞれ罪を犯すきっかけになりうるということを警告されます。これらの警告は実際に体の一部を切り落とすことを奨励するものではなく、罪への誘惑に警戒することを読者に教えるものです。箴言6:16~19には「手」「足」「目」が引き起こす罪の実例が記されています。それによれば「主の憎まれるものが六つある。心からいとわれるものが七つある。驕り高ぶる目、うそをつく舌/罪もない人の血を流す手/悪だくみを耕す心、悪事へと急いで走る足/欺いて発言する者、うそをつく証人/兄弟の間にいさかいを起こさせる者。」だそうです。これらの罪に最大限警戒しなさいということが教えられています。


さらに話は「塩」に及びます。塩についてレビ記2:13には「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。」と記されています。この律法を背景にするならば「人は皆、火で塩味を付けられる」というイエス様の言葉は、人が迫害や試練という「火」を通してより神にふさわしいものとされるという意味でしょう。さらに「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。」という言葉が続きます。塩は食材に味をつけ、腐敗から守り、儀式では浄化に用いられるものであるので、イエス様に従う者はそのような役割を失ってはならず、常に自分を清く保って人の役に立つ者でありなさいということが言われています。


色々なことが言われましたが、これらのことをすべて締めくくって、イエス様は「互いに平和に過ごしなさい」と言われます。イエス様が今日教えられたことはすべて、私たちが互いに平和に過ごすために具体的に必要なことです。まず、私たちはヨハネが抱いていたような内輪志向や特権意識に気を付ける必要があります。教会に通い、日々聖書を読んで、イエス様を近くに感じている人からすると、軽い気持ちでイエス様について語る人には不快感をおぼえるものです。しかしイエス様ご自身はいたって寛大です。「逆らわない者は味方」というくらい、おおらかに構えていた方が互いに平和に過ごせます。


また、私たちは他人の信仰を妨げることをしてはいけませんし、自分たちの内面にも注意を払い、罪の誘惑に警戒しなければなりません。罪に誘われて嘘をついたり暴力をふるったりすることは、自分と神様の関係を損なうばかりか隣人との関係も損ないます。ですから互いに平和に過ごすためにはそれぞれができるだけ心の平安を保っていることが大切です。最後にイエス様は「自分自身の内に塩を持ちなさい。」と言われました。私たちはそうやって自分を清く保ち、周囲によい影響をもたらす人になれたらと思います。


今日のイエス様の教えは、かなり具体的なものでした。私たちは抽象的な教えを聞けば実際にどうすればいいのかわからないとぼやき、具体的な教えを聞けばそんなこと難しくてできないとぼやくものです。今日の教えも簡単なものではありませんが、それでもイエス様の言葉をふとした時に思い出すことができれば、私たちはますます平和に過ごすことができると思います。イエス様は私たちのゆっくりとした歩みを、根気強く見守ってくださっています。そのイエス様の眼差しに守られながら、日々をできるだけ平和に過ごしたいと思います。

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