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天の国のたとえ

Updated: Oct 7, 2020

2020年7月19日 聖霊降臨後第7主日

マタイによる福音書13章24~30節と13章36~43節


24イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。 25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。 27僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』 28主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 30刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

36それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。 37イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、 38畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。 39毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 40だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。 41人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 42燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 43そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

イエス様は引き続き、たとえを用いて人々にお話をされています。先週私たちは「種を蒔く人のたとえ」によって、イエス様が蒔いてくださったみ言葉の種が、神様の働きと周囲の人の導きで私たちのうちに芽を出したということを思い起こしました。今週私たちは毒麦のたとえによって、神の裁きというものに向き合います。


畑があって、そこにある人が良い種を蒔きました。成長すると麦になるようです。これを聖書では、イエス様がこの世界にみ言葉の種を蒔いて、神様を信じる人を育てようとしたと解釈しています。一応、私たちは自らをこの「良い種」であると信じています。しかし夜中にこっそり悪い人が来て、同じ畑に毒麦の種を蒔きます。毒麦はイネ科の雑草で、麦とよく似ていますが食べると苦い味がしてめまいや嘔吐を引き起こすそうです。この毒麦の種が蒔かれたことを聖書では悪魔のしわざと解釈します。悪魔によって毒麦の種が蒔かれて、神様を信じない人、悪いことを行う人が育ちます。


そうしてしばらくたつと、しもべ(畑で働く使用人)たちは麦の間に毒麦が生えているのを発見します。しもべたちはあわてて主人の所へ行き「毒麦を抜いてきましょうか」と申し出ます。しかし主人は言うのです。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」と。毒麦を抜いた時に隣の麦の根っこがついてきて抜けてしまうことがあるので、それを防ぐために、そのままにしておきなさいというのです。このしもべの姿にも、私たちは自らを見出します。自分から見て悪と映るもの、好ましくないと判断されるものを、早急に目の前から取り去ろうとします。そんな私たちをいさめて、そのままにしておきなさいと言われる主人が、神様です。正しくないものをさっさと取り去ろうとする私たちに対して、神様は「それは今あなたがするべきことではない」と言われます。麦と毒麦が分けられるのは最後の段階、収穫の時です。刈り入れるときに毒麦は毒麦で集められて燃やされ、麦は麦で集められて倉に入れられます。同じように、神様を信じる人とそうでない人が分けられるのは、正しい人と正しくない人が分けられるのは、最後の審判の時であるのです。


このたとえは私たちに、人が人を裁いてはならないということを教えます。人を裁いたり、審判を下したりすることができるのは、神のみであるというのです。宗教はその性質上、正義というものと大変結びつきやすい構造をしています。人類の歴史を振り返っても、ある人々が自分たちの信仰や自分たちの正しさに忠実であるあまり、自分たちと違う人や自分たちから見て正しくない人を、変えようとしたりあるいは殺そうとしたりする、ということが絶えず繰り返されてきました。しかしながらイエス様のこのたとえ話は、そういうことをしてはならないということを語っています。「人のことはほっときなさい」と言うのです。敵に意地悪をされても、悪がすくすくと育っているように見えても、神様は人間にそれを排除することをお命じになりません。そうではなくて、育つままにしておきなさい、手出しをしてはいけないとおっしゃいます。本当の意味で人を裁くことができるのは神様だけだからです。敵に対して復讐するのではなく、自らが正義となって裁きを行うのでもなく、すべてを神にゆだねて、あなたはただ信仰をもって生きなさいというのです。


この教えは聖書の時代に生きていた人々からすれば大変な驚きだったと思います。旧約聖書の神は戦う神、滅ぼす神です。戦争で勝つこと、同じ神様を信じない人を滅ぼすことが明らかな正義として捉えられていました。悪い麦があったら根絶やしにして、さらにそれを蒔いた敵を徹底的にやっつけるというのが当時の人々の基本的な思考回路だったわけです。しかし当時は非常な驚きをもって迎えられたであろうこの教えも、私たちにとっては自然と納得する部分があるのではないでしょうか。私たちはイエス様以後の2000年の歴史を知っています。歴史を振り返った時、復讐は復讐を生むということがわかります。多くの戦争は実際のところ、正義と悪の戦いではなくて、正義と正義のぶつかり合いでありました。人間同士が裁きあうところには憎しみが生まれ、許しあうところには愛が生まれました。そのことを実感している私たちにとって、イエス様のこの教えは、より深く受け止められるのではないでしょうか。


これから8月に向けて平和について考える機会も増えてきますが、そんな時にこのイエス様のたとえを思い出したいのです。私たちに求められているのは、悪を排除することでも、敵を滅ぼすことでもありません。ただイエス様によって蒔かれた種として、神様を信頼して、蒔かれた場所で育つことです。そうしてすべてを神にお任せして、自分は精いっぱい愛をもって生きるということです。自らが正義になるのではなく、ただ信仰と愛を生きるということです。今日のこのイエス様の教えを聞いて、私たちはそれぞれの信仰生活を振り返り、そして平和を祈り続けてまいりたいと思います。

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