2021年8月8日 聖霊降臨後第11主日
ヨハネによる福音書6章35節と41~51節
福音書 ヨハネ6:35, 41~51 (新175)
6: 35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」 43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。 44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 48わたしは命のパンである。 49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
先週私たちは、カファルナウムでのイエス様と群衆とのやり取りについて聞きました。イエス様のおっしゃることをなかなか理解しない群衆に対して、イエス様は根気強く教えておられましたね。今日はその続きです。イエス様は自らを追ってカファルナウムにやってきた群衆に対して「天からのまことのパン」について語り始められます。イエス様によれば「天からのまことのパン」は物質ではなく、また人の手によるものでもありません。「天からのまことのパン」はただ神様がお与えになるもので、それによって全世界の人々が命を得るためのものです。
その話を聞いた群衆はイエス様に「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と願いました。するとイエス様は「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」とお答えになります。彼らが乞い求めているものはイエス様ご自身であることがここで明かされるのです。
物質としてのパンや水は、少しのあいだ飢えや渇きを癒すことができても、しばらくするとまたお腹が減ったりのどが渇いたりしてきます。しかしイエス様という命のパンは、そういうたぐいのものではありません。なぜなら、イエス様というパンは人々に永遠の命を与えるからです。群衆はイエス様に「そのパンをいつもわたしたちにください」と願いましたが、イエス様という命のパンを一度受け取れば、その人は永遠に満たされます。4章ではイエス様がサマリアの女に「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言われました。同じように、イエス様が彼らの内にいることで、彼らは常に満たされることになるのです。
しかし、そのようなイエス様の招きに対して、ユダヤ人たちは否定的な反応を見せます。ヨハネ福音書の著者はイエス様に敵対的な人々のことをざっくりと「ユダヤ人」と呼んでいますが、この時登場した「ユダヤ人」はおそらくガリラヤの人々でした。彼らはガリラヤのナザレにいたイエス様一家を知っていました。そして「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。」と言い始めます。イエス様が自分たちと同郷の人間、普通の人間であるにも関わらず、「わたしは天から降って来た」と主張することは許されないと彼らは感じていました。
そんな彼らに対してイエス様は「つぶやき合うのはやめなさい」と言われます。新共同訳で「つぶやく」と訳されているゴグーゾーというギリシア語は「ささやく」「小さい声でぶつぶつ不平を言う」という意味の言葉です。敵対する人々を前にしても、イエス様は教えることをおやめになりません。
そしてイエス様が明かされたのは、終わりの日に人を復活させるのはわたしである、ということでした。さらに「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」とも言われます。明らかに、イエス様がここで言われている「父」とは地上の父ヨセフのことではありません。そうではなくてイエス様のまことの父、父なる神様のことです。聴衆がイエス様を「ヨセフの息子」という枠に当てはめている間は、彼らはイエス様のもとに至ることができません。イエス様のもとに人を引き寄せてくださるのは父なる神様であるからです。
そして話は「天からのパン」に戻ります。群衆は、自分たちの先祖が荒れ野で食べたマンナこそが「天からのパン」であると考えていました。しかしイエス様はそれを否定します。マンナは「天からのパン」ではない、それを食べて生き延びた者たちも最後にはみな死んだではないか、言うのです。そうではなくて「天からのパン」とはイエス様ご自身のことであって、それによってもたらされるのは永遠の命であるとイエス様は言われます。肉体が滅びてもなくならない何かを、イエス様は与えようとしておられるのです。
イエス様という天からのパンは、人々に永遠の命を与えます。その永遠の命を与えるためにイエス様はこの世に来られ、人々がどんなに無理解であっても、不信仰であっても、イエス様はなんとかしてそれを与えようとしてくださいます。永遠の命とは、肉体の命とは別に、神様との人格的な関係を永遠に生きられるということを意味しています。永遠の命を持つ人は、地上に生きている間も、そして死んだ後も、神様との途切れることがない交わりの中にいるのです。その人の内側はいつも神様によって満たされています。また、永遠の命の結果として復活が起こります。死後も神様との関係が結ばれているからこそ、神様が定められた時に復活させていただくことができるのです。
イエス様を信じ、こうしてみ言葉を聞いている私たちも、すでに永遠の命を受け取っています。その永遠の命は、イエス様が何としてでも私たちにお与えになりたかったもの、命をかけてお与えくださったものです。地上のものは移ろうものです。満腹するまで食べてもそのうちお腹はすきますし、物はいつか壊れますし、人はみんな死にます。でも、そういうものがみんななくなっても、神様との関係だけは永遠になくなりません。私たちが神様から忘れられることは決してありません。今日の聖書の言葉を聞いて、そのことを思い出したいと思います。
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