2023年7月2日 聖霊降臨後第五主日
マタイによる福音書10章40~42節 「受け入れる」
福音書 マタイ 10:40~42 (新19)
10: 40「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。 41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。 42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
先週、先々週と、マタイ福音書の10章を通してイエス様が弟子たちを宣教に送り出す場面を読んでいます。今日はその最後のところです。これまでイエス様は弟子たちに対して「何も持って行ってはならない」「恐れてはならない」ということを教えられました。そしてイエス様は同時に、そんな弟子たちを各地で受け入れて世話をしてくれる人がいるということを示唆しておられました。イエス様はご自分の宣教活動に、イエス様と弟子たちだけがいればそれでいいと思っておられたわけではありません。実際にはそれに加えて、彼らを迎え入れ、励まし、援助してくれる人が不可欠だったのです。イエス様は弟子たちを送り出すにあたって、彼らを迎え入れてくれる人たちが行く先に必ずいるということを語ります。そして、弟子たちを受け入れ、迎え入れる人は、必ずその報い(ごほうび)を受けるということを語っておられるのです。
さらにイエス様は、イエス様の弟子たちを受け入れるということは、イエス様ご自身を受けいれるのと同じことであると言われています。また、そうやって弟子を通してイエス様を受け入れるということは、父なる神様を受け入れるということだとも言われます。ヨハネによる福音書13章20節でイエス様は「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、お遣わしになった方を受け入れるのである。」と語られています。イエス様の遣わす弟子を受け入れること、イエス様を受け入れること、父なる神様を受け入れることは、すべて同じことであると語られているのです。
それでは、弟子を受け入れるというのはどういうことでしょうか。私たちは何をすればよいのでしょうか。聖書の時代(今もそうかもしれませんが)、お客さんを受け入れるというのは大変な労力を必要とする仕事でした。ルカ福音書の7章をみますと、客が到着すると口づけをもって迎え、サンダルを脱がせて足を洗い、香油を客の頭に塗り、客の宿や食事に関して万全を期すことが求められていたことがわかります。有名な「マルタとマリア」の話では、マルタはイエス様の一行を迎え入れるためにてんてこまいで働きましたし、創世記18章を見ても、アブラハムは家じゅうがひっくり返るくらいの勢いで客人をもてなしました。誰かを受け入れる、迎え入れる、というのは、本来多くのものを差し出すことが求められる行為です。多くの労力、多くの時間、多くの人、多くの食べ物を差し出すことが、よいおもてなしでした。
しかしご自分の弟子たちを受け入れるにあたって、イエス様が人々に差し出すように求められたのは「冷たい水一杯」でした。もちろんパレスチナは日本のように水が豊富な土地ではありませんし、今のように水道もありませんでしたから、水の一杯であってもそれなりの価値はあったはずです。しかしそうは言ってもイエス様の時代には井戸もありましたし、みんな水くらい普通に飲んでいます。水の一杯、そんなありふれたものを差し出すだけで充分だとイエス様はおっしゃるのです。イエス様は、ご自分は惜しまず与える方でありながら、私たちからは何も奪おうとされないお方です。イエス様は私たちに罪の赦し、永遠の命、あらゆる恵みと豊かさを与えてくださるのに、ご自分とその弟子たちには水を一杯与えてくれるだけで充分うれしいのだとおっしゃいます。イエス様は私たちにたくさんのものをくださりながら、ご自分とその弟子たちにはたった一杯の水で十分であると言われるのです。
また、イエス様は、そうやって「冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」とおっしゃいます。それを与えることで報いを受けるのは、祝福されるのは、私たちであると言われるのです。イエス様が「与えなさい」とおっしゃるとき、それはイエス様のために差し出しなさいというのではなくて、私たちのため、私たちが祝福されるためだというのです。イエス様のためにと思って何かを与えるとき、最終的に満たされるのは私たちのほうであるということをこの箇所は伝えています。
しかしそのたった一杯の水でさえ、私たちは知らずに拒んでしまうことがあるのではないでしょうか。私たちの信仰生活は反省の連続です。イエス様はご自分の弟子たちを「小さな者」と呼ばれます。「小さな者」という言葉は文字通り子どもを意味する場合もありますが、この場合は「取るに足らない者」「弱い者」の意味でしょう。イエス様とその弟子たちは、何も持たずに旅を続ける者、社会的弱者という意味で「小さな者」でした。そしてイエス様とその弟子たちは今もきっとほかの「小さな者」の姿で私たちを訪ねてくださっています。そして私たちはいつでも一杯の水を差し出すように招かれているのです。
私たちはいつでも人に優しくできるわけではありませんし、ほんの少しのものですら出し惜しみをしてしまうことがあります。人は生きている限り、本質的に自己中心的で、罪を犯すものだからです。それでもイエス様とその弟子たちは、何度でも、私たちのところを訪ねてくださいます。イエス様の宣教には、受け入れる人が必要だからです。そしてきっと何度でも、さまざまな形で、誰かのために何かを差し出すように、私たちを招かれます。与えることで、私たち自身が信仰を深め、祝福を受けるためです。イエス様は、ご自分は惜しまずお与えになりながら、私たちからは何も奪おうとされないお方です。私たちに分かち合うことを望まれ、そのような生き方に祝福を与えてくださるお方です。イエス様が与えてくださる多くのものに感謝して、ほんの少しできることを差し出す心を持っていたいと思います。
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