2021年10月17日 聖霊降臨後第21主日
マルコによる福音書10章35~45節
福音書 マルコ10:35~45 (新82)
10:35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 41ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。 42そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
引き続きマルコ福音書を読んでまいります。イエス様は金持ちの青年に教えられた後、三度目の受難予告をされました。それは「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」というもので、今までにないほど具体的で恐ろしい内容でありました。その後に記されているのが今日お読みする「ヤコブとヨハネの願い」のエピソードです。
イエス様は弟子たちを連れて、十字架の待つエルサレムへと向かっておられます。そんな中で、弟子のヤコブとヨハネが進み出て、イエス様に「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」と言ったところから今日の物語は始まります。ヤコブとヨハネの兄弟は共にガリラヤ湖で漁をしていたところをイエス様に招かれました。彼らは、おそらくはその気性の激しさから「雷の子ら」と呼ばれており、またルカ9:54ではイエス様を歓迎しなかったサマリア人の村人を見て「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と発言するなど、なにかと物騒な人物でした。しかしイエス様はしばしばペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人だけを伴って行動されており、彼らが弟子たちの中で重んじられていたことがわかります。
何をしてほしいのか言ってみなさいと言われたイエス様に彼らは「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と言いました。イエス様が栄光の座に着く時に、その左右に座る地位を要求するということは、イエス様が権力を掌握した時に、高い地位を与えてくれるように頼んでいるということです。ヤコブとヨハネはイエス様がこれからしようとなさっていることの意味が分からず、イエス様がこの世の支配者になって、自分たちもその分け前をいただけることを夢見ていました。
そんな彼らに対しイエス様は「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と言われます。ともすれば私たちはヤコブとヨハネの露骨さや図々しさばかりに注意が行きがちですが、イエス様は彼らの根本的な問題がその無理解にあると見抜いておられたのです。イエス様は「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と言われます。それはイエス様の受難と死を意味していました。イエス様がもたらすものは彼らの夢見ているような栄光や権力ではありません。そうではなくて、イエス様はご自分が苦しみを受けることで、すべての人を罪から救おうとされているのです。
それに対して二人は「できます」と答えます。彼らが迷いなくそう答えたのは、「このわたしが飲む杯」「このわたしが受ける洗礼」が何であるかをまだ理解していなかったからです。しかし「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」とイエス様が言われた通り、彼らもイエス様の運命に引き入れられていくことになります。ヤコブは後に十二弟子の中で最初の殉教者となり、ヨハネは十二弟子の中で唯一殉教を免れたものの長年パトモス島に幽閉されることになりました。しかしこの時点で彼らがそのことを予期していたとは思えません。
イエス様はさらに「しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」と言われます。たとえヤコブとヨハネが今後イエス様と同じように苦難の道を歩むことになったとしても、それによって特別な報いを要求することはできないというのです。それは神がお定めになることで人間の決めることではないからです。
さて、ここまでの話をほかの十人の弟子たちが聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めました。9章で「だれがいちばん偉いか」と議論し合っていた彼らです。弟子たちはみな、高い地位への関心と要求を持っていました。だからこそ、ヤコブとヨハネが抜け駆けするようにイエス様にそのようなお願いをしたことが許せなかったのです。9章の終わりで「互いに平和に過ごしなさい」と言ってイエス様にたしなめられた弟子たちでありましたが、ここへきてまた争いが起ころうとしていました。
イエス様はそんな弟子たちを呼び寄せて「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」と言われます。権力を求め人を支配することを望むのは、それは異邦人がすることであって、神の民がするべきことではないとイエス様は語られるのです。それはこの世的な願いであって、弟子たちはそのような思いから遠ざかる必要がありました。
「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」とイエス様は言われます。イエスは二回目の受難予告の後にも「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と言われていました。弟子たちは三度目の受難予告の後にも同じ内容の言葉を聞くことになります。仕えること、自分を低くすることの大切さは、イエス様が本当にお示しになりたいことだったからです。
イエス様はその根拠を示して「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と言われます。イエス様がこれほどまでに仕えなさいと言われるのは、イエス様ご自身が仕える方であるからです。そのことは今日の第一の日課と第二の日課でも示されています。イエスは苦難の僕であり、弱さをまとい試練に遭われた大祭司であるのです。弟子たちは、そして私たちは、このイエス様の姿を模範としなければなりません。
もちろん仕えるということは簡単なことではありません。偉くなりたい、人に仕えられる身分になりたいと望んでいた弟子たちを見てもわかるように、逆に自分が仕えるということは人間が本来望まないことです。しかしイエス様が十字架でご自分の命を捧げられたことを知った者は、自然と仕える者に変えられていくということを聖書は語っています。今はこのように無理解であった弟子たちも、イエス様の死と復活の後には命がけで奉仕に精を出したのです。仕える者になりなさい、という今日のイエス様の言葉がきっと弟子たちを後々まで力づけたのだと思います。
今日の聖書の物語では、高い地位を望むことを諦められない弟子たちと、ひとり受難に向かわれるイエス様との対比が描き出されていました。人間の思いは神様の思いを理解せず、人間は神様の言葉を理解することができないものです。しかしイエス様は繰り返し、仕える者になりなさい、と語りかけておられます。イエス様の呼びかけを聞き、またイエス様が私たちのためにしてくださったことを思い出す時、私たちの中に奉仕の心が生まれます。人間は弱く、自己中心的な生き物です。しかしイエス様の声を聞くことで私たちは互いに仕え合う一歩を踏み出すことができます。来週もまた続きを読んでまいりましょう。
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