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キリストの言葉による自由

2023年10月29日 宗教改革主日

ヨハネによる福音書8章31~36節


福音書  ヨハネ 8:31~36 (新182)

31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。


今日は宗教改革主日の礼拝です。1517年10月31日、アウグスティヌス会の修道士であったマルティン・ルターが「95か条の提題」をヴィッテンベルク城教会の扉に打ち付けました(※)。それに端を発した一連の教会刷新運動が、のちに「宗教改革」と呼ばれるようになる出来事です。当時のキリスト教会は、様々な矛盾を経験していました。その代表的なものが免罪符(贖宥状)の販売です。免罪符(贖宥状)は簡単にいうとこれを買えば罪が赦される(罪の償いが免除される)というもので、人々は自分の救いのため、さらには先に天に召された家族のため、こぞってこれを買い求めました。


一見愚かにも見えるこの行為ですが、当時の人々の信仰が今の私たちより弱かったかというと、決してそんなことはありません。むしろ中世の人々は、日曜日ごとの礼拝を大事にし、神様の裁きを真面目に恐れ、献金もお祈りもたくさんしました。そして真面目に贖宥状を買いました。救われるためには、たくさん献金して、たくさんよい行いを積んで、神様に認めていただかなければならない。そうでなければ神様は私たちを裁き、死んだら地獄や煉獄に連れて行かれるだろう。そう本気で信じていたのです。教会で教えられたことを信じれば信じるほど、恐れにとらわれ、不自由になっていく。そういう時代でありました。


そのような教会の在り方を批判したのがマルティン・ルターとその同僚たちです。ルターはこう主張します。私たちが神様に罪を赦していただこうと思ったら、心から悔い改めることが必要なのであって、形だけ贖宥状を買っておけばよいとかそういうものではないということ。そして、純粋な人々に贖宥状を売りつけて、莫大な寄進を得るような経済システムを築いていた当時の教皇庁は間違っているということ。これらのことをルターは「95か条」のなかで訴えました。


そしてなによりルターが主張したのは、罪の赦し、すなわち私たちの救いは、お金で買うものでも、よい行いの見返りとして獲得するものでもないということです。私たちはお金やよい行いによってではなく、ただ神様の恵みによって救われている。人の行為による救いではなく、神の恵みによる救い。このことを訴えたのがマルティン・ルターであり、その信仰の上に建てられた教会が、私たちの集うルター派教会(ルーテル教会)です。


数あるルターの教えの中で、最も核となるものは「信仰義認」であると言われます。「義認」とは、神様の前で義しい(正しい)と認められること、そして義しい(正しい)と認められた人は救いをいただくことができるので、すなわち救われることと考えてよいでしょう。「信仰義認」とは、信仰による救いという意味、信仰によって人は救われるという考え方です。


「信仰義認」が何なのかを理解するにはその反対である「行為義認」を考えてみるとわかりやすいと思います。前提としてルターの時代、クリスチャンの心の拠り所は「行為」でありました。献金する、免罪符を買う、個人ミサをあげた回数、お祈りした回数、告解(ざんげ)した回数、修道院に入ったかどうか、聖地巡礼に行ったかどうか、これらのもろもろの行いが救いの判定材料です。それが十分であれば救われて、足りなければ裁きを受ける。そういう世界を生きていたわけです。


しかしルターはあることに気付きます。そうやって「行為義認」の世界を突き進んでいけば、救いというのは結局のところ「人間が」「自分の力で」「遠い未来に」勝ち取るものになってしまう。しかし救いとは「神によって」「人間の力によらず」「今この瞬間にも」与えられているものではないか。救いとは、人が努力と根性によって自ら勝ち取るものではない。神によって与えられるものである。そしてそれは何の代価もなしに、ただ恵みとしてプレゼントされるものである、と。


そうだとすれば、救いはいつか遠い未来に得るようなものではないのではないか。私たちは今この瞬間も、救われて生きている。だから私たちはもはや、自分が救われているかどうかという恐れに取りつかれる必要はない。自分の救いを獲得することにお金と時間を費やす必要もない。むしろ救われた者として喜んで生きて、自分の救いのために費やしてきたお金と時間は、今度は世の中を良くするために使えばいい…。これが本来的なキリスト教信仰の在り方、ルターが明らかにした信仰義認の世界です。


真理はあなたがたを自由にする、と聖書は言います。信仰義認によって明らかになる真理、私たちは神によってすでに救われているという真理は、私たちを自由にします。あらゆる恐怖から、あらゆる諦めから、そしてあらゆる行為から、私たちを自由にするのです。私たちは自分の救いのために礼拝をする必要はありません。贖宥状を買う必要も修道院に行く必要もありません。お祈りも献金も、するのはもちろん意味があることですが、でもしなかったからといって救われないわけではありません。だから私たちは、ただこうしてみんなで集って神様に感謝することができます。喜びをもって聖書を読んで、心から祈り、隣人に仕えることができます。それはとっても喜ばしいこと、真理を知る者だけが手にする自由です。


私たちは自分の力によってではなく、神様の恵みによって救われています。救いはいずれ獲得するものではなく、すでにここにあるものです。私たちが礼拝に集うのも、奉仕するのも、献金するのも、自分の救いを獲得するためではありません。ただ救われた喜びを分かち合うために、そうしているのです。神の恵みによって救われる。この真理、この自由を、ルーテル教会に集う私たちはいつも胸に刻んでいたいと思います。


※「提題をヴィッテンベルク城教会の扉に打ち付ける」の補足

教会の扉は「掲示板」として機能していたものであり、ルターはその他の掲示物に交じって「95か条の提題」(正式名称は「贖宥の効力を明らかにするための討論」)を掲示したのではないかと言われています。しかしながら、ルター自身はそのことに言及しておらず、同時代の人々の目撃証言も残っていません。それでもこの提題が伝わっているのは、ルターが同じ日付でマインツの司教アルブレヒト宛の手紙に同様の提題を添えていたことが確かであるからです。提題の前書きはルターの投げかける95か条に対しての活発な神学討論を呼びかけています。当時ルターはヴィッテンベルク大学で教えていましたが、神学討論は講義と並ぶ大学の通常カリキュラムの一つでした。つまり、ルターは広く世界を変えるためにこの提題を発表したというよりは、専門家の間での神学討論の素材としてこの95か条を投げかけたに過ぎない、ということになるでしょう。

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