2023年9月10日 聖霊降臨後第十五主日
マタイによる福音書18章15~20節
福音書 マタイ 18:15~20 (新35)
15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
先週私たちはイエス様の受難予告の物語を聞きました。イエス様が弟子たちに対して、ご自分が十字架にかかって死ななければならないということを打ち明けられた場面でした。弟子たちと一緒に旅をしてくださっているイエス様はこれから十字架にかかり、復活されて、天に昇られます。そうしてご自分が天に昇られたあと、地上に教会を残してくださったのです。
今日の福音書の物語はイエス様が弟子たちに対して教会員同士の生活について教えられる場面です。イエス様は「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」と言われています。これはイエス様のオリジナルというよりは、旧約聖書においてすでに語られている戒めです。レビ記19章17節には「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。」という律法が存在します。イエス様がまず「行って二人だけのところで忠告しなさい」と命じておられるのは、忠告される人の名誉が守られるためです。またイエス様は「兄弟」という言葉を使っておられますが、実際には男性だけでなくすべての人が含まれていると考えてください。
そうやって二人だけのところで忠告し、相手が言うことを聞き入れたら、それは「兄弟を得たことになる。」とイエス様は語ります。「兄弟を得る」というのはその相手を信仰者の群れに取り戻したということです。日課には選ばれていませんが、この教えの直前では「迷い出た羊のたとえ」が語られています。九十九匹の羊を置いても一匹の迷い出た羊を探しに行きなさいというたとえです。このたとえで語られているように、イエス様はご自分を信じる者が一人も失われてはならないと考えておられました。そしてまた、迷い出た一匹の羊を探しに行った羊の所有者のように、信仰者たちがお互いに対して責任を持つこと、教会が信仰から離れそうになった仲間を取り戻すこと、を理想とされていたのです。
使徒パウロはテサロニケの信徒への手紙Ⅰにおいて「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」(5:11)「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」(5:14~15)と記しました。このような記述からは初期の教会の考えが、教会員同士がお互いに励まし、向上、戒め、援助、忍耐をし合わなければならないというものであったことが伺えます。従来のユダヤ教の教会生活は祭司や律法学者といった指導者に従うことを第一としましたが、キリスト教はそういったユダヤ教の教会生活とはまた違った、上下関係のない相互扶助的なコミュニティを理想としていたのでしょう。
イエス様の教えの続きを見てみると「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」ということが言われています。一人か二人の兄弟が加わることはその罪人を保護するためであると考えられます。もしかすると忠告するほうが間違っているかもしれないからです。ここでも指導者や監督者は登場せず、教会員同士で揉め事を解決することが勧められています。
さらにイエス様は最後の手段として「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」ということを言われています。福音書記者マタイは「異邦人」や「徴税人」という言葉を「部外者」を指す用語としてやや乱暴に用いています。最後は教会全体が罪人を指導することになるということですが、イエス様の言葉には最後まで指導者や監督者が登場せず、教会の秩序を保つことや教会員を指導することは、あくまでも教会員相互の責任で行われるべきであるということが示されています。
このようにイエス様は、ご自分の教会の姿を、ユダヤ教的な階級組織とは違った、みんなが平等であるような姿として弟子たちに教えられました。まあそういうのは大抵うまくいかないので使徒言行録の時代には早くも教職者、奉仕者、執事、伝道者といった役割分担と階層構造が登場するのですが、ともかくこれが初期の教会が理想とした信仰者の群れの姿であったようです。
みんな平等でみんながみんなに対して責任を持つ集まり。もちろんそれは実際には難しいこと、人間の能力を超えたことです。現実において人が集まるところでは、組織や手続きや責任者が必要だと私は思っています。しかしその一方で、教会員一人ひとりが、誰かに強制されるのではなく、お互いに助け合いいたわり合うという、そういう営みが、キリスト教の教会を形作っているのは本当のことです。教会には牧師だけがいればそれでいいと思っている人はたぶんいないでしょう。なぜなら私たちは、教会員相互の交わりが私たちに救いや励ましを与え、信仰の先輩方の姿が私たちに忍耐や信仰を教えてくれるということを、教会生活を通して知っているからです。私たちが相互に関わり合い、相互に信仰を教え合うことは教会にとって欠かせないことがらです。
イエス様はこの話を締めくくって「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と言われました。イエス様は教会員同士助け合いなさいと言われ、その上で、私もまさにそこにいるのだということをおっしゃっています。イエス様は私たちに助け合うことを命じられただけでなく、その中にイエス様が働いておられることを約束してくださったのです。十字架にかかり、復活して天に昇られたイエス様はいま、私たちがイエス様のお名前によって集まるところにいてくださいます。私たちがイエス様を慕って集まるこの教会は、イエス様がおられる交わりです。これからも私たちはお互いから学び、お互いに元気づけられ、お互いに赦し合い、お互いに祈り合って、教会生活を送ってまいりたいと思います。
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