2020年6月14日 聖霊降臨後第2主日
マタイによる福音書9章35節~10章23節
9: 35イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 36また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
10: 1イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。 2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、 3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、 4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。 7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
9帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。 10旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。 11町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。 12その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。 13家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。 14あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。 15はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」
16「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。 17人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。 18また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。 19引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。 20実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。 21兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。 22また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 23一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」
教会のポストに封筒が届いていました。中を開けると私の按手式の日の写真が入っていました。3か月くらいしか経っていないのですがずいぶん前のことのように感じます。あの日、按手を受けて、みなさんに送り出していただいたなあということが思い出されます。按手式のあとはお祝いの会でした。色々な方にスピーチをしていただいたりお花や記念品をいただいたりして、大変ありがたいひと時でした。そうやって教会に派遣されるにあたって、いろんなものをいただいて、これから宣教頑張ってねと送り出されたわけです。
今日の福音書の日課は、イエス様が弟子たちを送り出す場面です。イエス様は12人の弟子たちを呼び寄せ、宣教させるために彼らを送り出します。このときのイエス様は教会のみなさんとは違います。お花も記念品も、食べ物も持ち物も、なにもくれません。むしろイエス様は弟子たちに、あれもこれも持って行ってはならないと命じておられるのです。イエス様が持つことを許可されているのは杖と履物のみです。杖と履物は歩行の助けであり、精力的に歩き回る弟子たちの姿を想像させます。この時の杖はまた、身を守るためのものでもありました。危険な旅になることもあったのでしょう。しかしそのほかは、パンも袋もお金も禁止。弟子たちは食べるパンも、持ち物を入れる袋も、何かを買うためのお金も持つことができません。必要なものは誰かにもらうしかないということになります。
イエス様の時代、旅をしながら神様のことを教えた伝道者たちは、彼らから教えを聞こうとする人たちの家に泊まらせてもらい、必要なものを世話してもらうのが普通でした。ご自分の弟子たちもそうであることをイエス様は望まれたのです。ですから弟子たちは、これから出会う人たちが自分たちを受け入れて、きっと世話してくれるということを信じて、何も持たずに旅立ちました。自分の力に頼るのではなく、誰かに助けてもらうことで生きていく。ひとりで頑張るのではなくて、誰かに支えてもらって頑張る。弟子たちにはそのことが求められていたのだと思います。自分のお金や、自分の食べ物、自分の持ち物にこだわるよりも、これから出会う人に心を開くことが大事だよとイエス様は弟子たちに教えられたのでした。
このような人に対する信頼の根底には、すべてを与えてくださる神への信頼があります。人に日々の糧を与えるのはあくまでも神であることをこの箇所は改めて思い起こさせます。実際に必要なものは人を通してもたらされるのですが、人々が弟子たちの世話をしたのは、弟子たちの働きの中に神の働きを見ているからでした。弟子たちが伝道するために旅をしているから、その教えを聞こうとする人々は力を貸してくれたのでした。そして、この助けを与える人々のなかにも、神の働きがありました。神様は弟子たちばかりではなく、すべての人々のなかに働かれたのです。人々が神さまの働きのために一つになる姿、その中に神ご自身が生きて働いておられるということをこの聖書の箇所は語っています。
そもそもイエス様は弟子たちが、ご自分と同じように働くことをお望みでした。イエス様が弟子たちにしなさいと命じられたことは、イエス様ご自身がされてきたことと同じです。悪霊を追い出すこと、病人を癒すこと、そして悔い改めさせるために宣教することでした。そしてイエス様が持ってはいけないと命じられたものはイエス様ご自身もお持ちではないものでした。イエス様ご自身もまた、何も持たずにこの世に送り出され、働いておられたのです。イエス様だけがお金や食べ物や着る物をたくさん持っていて、弟子たちにはそれを禁止していたのではありません。イエス様ご自身も、ほとんど何も持たずに旅を続けていたのでした。
ではイエス様ご自身は何もしてくださらなかったのでしょうか。本当に、何も与えてくれなかったのでしょうか。私は先ほどイエス様はなにもくれなかったと言ってしまいましたが、これは実は間違いです。聖書を丁寧に読むと、イエス様がくださったものが一つだけ、存在することに気づきます。それは「汚れた霊に対する権能」でした。汚れた霊に対する権能。それは「神様の力」のことです。聖書の時代、人間には治せない病気や困りごとが、汚れた霊の仕業であるとされていたことはみなさんも聞いたことがあると思います。そして、そういったことに苦しむ人たちが「罪人」と呼ばれて仲間はずれにされていたのもまた、この時代の特徴でした。イエス様が汚れた霊を追い出す権能を弟子たちにくださったことで、神の力によってそのような霊を追い出すことができるようになりました。そうすることで、差別され、仲間外れになっている人たちを救うことができたのです。この時弟子たちは自分たちに能力があるからこのようなことができたわけではありません。神の力をイエス様から授けられたからです。自分の力で人を救うのではなく、イエス様によってプレゼントされた神様の力によって人を救う。誇るのは自分の力ではなく神の力だと、イエス様は弟子たちに教えておられます。
イエス様の名前によって洗礼を受け、イエス様の教えを聞くために教会に集う私たちはみな、イエス様の弟子です。私たちはイエス様によってこの世に送り出されているのです。しかしながら、礼拝が終わって教会堂から送り出される時、おうち礼拝が終わって日常に戻る時、私たちの持ち物が増えているわけでもなければ、能力や資格が増えているわけでもありません。イエス様はそのようなやり方で弟子を派遣されるお方ではないからです。イエス様は弟子たちに食べ物も持ち物もくださいませんでした。それは、弟子たちがこれから出会う人に助けられ、信頼し、一緒に生きていくためです。それでもイエス様はたった一つ、汚れた霊に対する権能、つまり神様の力をくださいました。それは、弟子たちが自分の力ではなく神様の力によって働くためです。そして、私たちもまた、そうやって送り出されています。あなたが、これから出会う人に助けられるように、あなたが働くとき神さまの力が働くように、イエス様は今日もあなたを送り出してくださるのです。
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