2021年4月25日 復活節第4主日
ヨハネによる福音書10章11~18節
福音書 ヨハネ10:11~18 (新186)
10:11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
先週に引き続き、復活節の期節を過ごしています。日課は復活後のエピソードを離れてヨハネ福音書のイエス様の講話に移ります。イエス様がファリサイ派の人々に向かって「わたしは良い羊飼いである」と話される場面です。ここではイエス様ご自身が「良い羊飼い」に、そして私たち人間がその「羊」にたとえられています。
羊飼いが自分の群れを気遣って、あらゆる危険から守るものだという考え方は、旧約聖書の時代から存在します。例えばエゼキエル書の34章などがそうです。ここではイスラエルの民が「羊」に、当時のイスラエルの指導者たちが「悪い羊飼い」に、そして主なる神が「良い羊飼い」にたとえられています。「悪い羊飼い」は苛酷に群れを支配して私腹を肥やします。毛を取ったり乳を飲んだりすることにしか関心がなく、羊が飢えていても危険な目に遭っていてもお構いなしです。それに対して「良い羊飼い」は「群れを養い、憩わせ、失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」と書かれています。羊が飢えたり迷子になったり獣に食べられたりすることのないように、一生懸命世話を焼きます。イエス様はそのようなお方、私たちを守る良い羊飼いであるというのです。
イエス様はさらに、わたしは羊のためならば命を捨てるとさえ言われます。イエス様が神の子でありながら十字架で死なれたのは、羊のため、私たち人間の救いのためでした。そんな「良い羊飼い」と対極にあるのが「雇い人」です。良い羊飼いが羊のために命を捨てるのに対し、雇い人は自分の命が助かるためなら羊を見捨てます。雇い人が羊を見捨てるのは「羊のことを心にかけていないから」です。「心にかける」と訳されている「メレイ」というギリシア語は「心配する」「気にする」という意味です。雇い人にとって羊は心配する対象でも、気にかける対象でもありません。ただ利益のために支配する対象です。雇い人はいちいち羊のことを心にかけていなくても生きていくことができます。人間は羊よりも強く、賢く、自由だからです。
羊があまり賢くない動物であるというのはみなさんもどこかで耳にされたことがあるのではないでしょうか。確かに羊は弱く、臆病で、方向音痴な動物のようです。私は牧場でひと月ほどボランティアをしたことがあるのですが、羊がカラスに食べられているところを見たことがあります。カラスに食べられるって意味が分からないと思うんですけれども、デンマーク牧場は羊も飼っていて、その飼っている羊のところにカラスが来ては体に乗っかって、羊の体をくちばしでつんつん叩いて、ほんのちょっと肉を食べてるんです。当然羊の体からは血が出ています。それで人間はカラスを追い払って消毒をしてあげるんですが、何回やっても同じこととで、毎日同じことが起きます。毎回羊は人間に助けてもらえるまでカラスを体に乗せたままつんつんつつかれっぱなしなわけです。羊と言うのはずいぶんのんびりした生き物で、また無防備なんだなあと思いました。
おっとりしていて自分の身を守ることができない羊。人間から見れば羊はそのような生き物ですが、しかし神様から見た私たちもそれと同じです。このたとえ話ではイエス様が「羊飼い」に、そして人間が「羊」にたとえられていましたね。神様から見れば私たち人間は羊のように弱く、愚かで、無防備です。身を守る術を持たず、道に迷いやすく、自分が何をすればいいのかわかっていません。私がカラスに食べられている羊を見て愚かだなあと思っているように、神様は私のたちを見て愚かだなあと思っているはずです。
しかし良い羊飼いであるイエス様はこう言われます。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」イエス様にとって羊は支配の対象ではありません。心配し、気にかけ、相互に影響し合う存在です。お互いに知っていて、お互いに存在を確かめ合う相手です。そしてそれは「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じ」ように起こる、とイエス様は言われます。父なる神とイエス様の間に交わされている完全な愛と信頼が、イエス様と羊(私たち)との間に交わされています。それほどまでにイエス様は羊に、私たちに、高い価値を与えてくださっているのです。私たちはイエス様からこんなにも大事にされているのです。
イエス様は羊のように弱く愚かな私たちに、これほどまでの愛を与えてくださっています。イエス様は私たちを養い、憩わせ、迷い出た私たちを連れ帰り、傷ついた時に包み、弱った時に強くしてくださるお方です。それは私たちが強いからでも優れているでもありません。むしろどんなに私たちが弱くても、取るに足らなくても、イエス様はその尽きることのない愛から、私たちを養い、私たちのために命を捨ててくださいます。このイエス様を羊飼いとして慕い、ついていく群れが私たちであり、私たちの教会です。
先ほど私は、羊は弱く、臆病な生き物だと申し上げました。しかし羊はまた、従順な生き物です。羊飼いの声を聞き分け、その声にひたすらついていくということができる生き物です。羊は羊飼いについていくことができるからこそ、身を守る力がなくても生きていけるのです。良い羊飼い、イエス様について行くこと。私たちにできることはそれだけ、私たちがしなければならないことはそれだけです。これからもイエス様の声に従い、いつまでもついて行きたいと思います。
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