2021年1月17日 顕現後第2主日
ヨハネによる福音書1章43~51節
ヨハネ1:43~51 (新165)
43その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。 44フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。 45フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」 46するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。 47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。 49ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 50イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 51更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
今日の聖書の物語では、イエス様がフィリポとナタナエルという二人の人を弟子にされます。ここへ至るまでのヨハネ福音書の内容を少し振り返っておくと、イエス様は洗礼者ヨハネに出会った翌日、最初の弟子を招かれます。最初の弟子は二人いて、そのうちの一人はアンデレでした。アンデレはさらに兄弟のシモンをイエス様のところへ連れて行き、シモンもイエスの弟子になります。そしてその翌日、イエス様はガリラヤへ行く道すがらフィリポに出会い、「わたしに従いなさい」と言ってフィリポを招かれたのでした。
イエス様がフィリポとナタナエルを弟子にする一連の物語は、ヨハネ福音書にのみ存在するエピソードです。フィリポに関して、ほかの福音書では名前が挙げられているのみですが、ヨハネ福音書では彼の登場するエピソードがいくつか語られています。(ちなみに、使徒言行録に登場する福音宣教者フィリポは別の人物です。)ナタナエルはヨハネ福音書にのみ名前が挙げられている人物で、ほかの福音書と使徒言行録に登場するバルトロマイという弟子と同一人物であると言われています。ナタナエルが本名で、バルトロマイ(タロマイの子という意味、タロマイは人名)がニックネームだったようです。
フィリポはイエス様の弟子になった後、さっそく出かけて行ってナタナエルにイエス様のことを話します。それによればイエス様は「モーセが律法に記した方」「預言者たちも書いている方」で、「ナザレの人で、ヨセフの子」でありました。「モーセが律法に記した方」という表現は申命記に由来します。かつてモーセはイスラエルの民に対して「いつか私のような預言者が立てられて神の言葉を語る」と言い残しました。そのモーセのような預言者がイエス様だというのです。実際にはイエス様は預言者以上のお方なのですが、しかしフィリポは「最も偉大な人物」を指してこう言ったのだと思います。
次の「預言者たちも書いている方」というのは、例えばイザヤ書を見ると「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」と書いてあります。預言者たちによって語られた救い主、いつか生まれてきてくださるはずの神の子が、まさにこの人であるとフィリポは理解したのです。
しかしそれを聞いたナタナエルは懐疑的です。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ってフィリポの言葉を受け入れません。「ナザレの人で、ヨセフの子」であるイエス様が救い主であるはずはないというのです。確かにイスラエルの人々にとっては救い主はベツレヘムに生まれるというのが常識でしたし、そもそもナザレのあったガリラヤ地方は辺境の地で、ユダヤ教信仰の中心地とは言えませんでした。実はナザレという地名自体、旧約聖書には一度も登場しません。ベツレヘムやエルサレムのように何度も語られている場所ならまだしも、ナザレとかいう聖書にも出て来ないような田舎の村に救い主が現れるはずはないとナタナエルは思ったのでした。
そこでフィリポは「来て、見なさい」と言ってナタナエルをイエス様のところへ連れて行きます。するとイエス様はナタナエルがどういう人物であるかを見抜き、さらに彼に向かって「あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいる所を見た」と言われたのです。すべてを見通す力、普通の人にはない能力です。それは奇跡でありました。そしてイスラエルの人々が信じてきたことがあります。それは、奇跡を行う者は、すなわちメシアであるということでした。ナタナエルは自分がいちじくの木の下にいたことを言い当てられ、イエス様の奇跡を体験します。そしてイエス様が神の子であると信じ、信仰を告白したのでした。
イエス様はナタナエルの信仰告白を受けて、ナタナエルに「もっと偉大なこと」を約束されます。聖書の物語においては、奇跡というのはそれ単体としてはほとんど意味を持ちません。こんなことできてすごいねとか、特別だねとか、それで終わる話というのは存在しないのです。そうではなくて、奇跡は、奇跡を通して神の全能と栄光を指し示す役割をします。だから、聖書の奇跡物語はいつも、奇跡によって神様の力強さが証しされるとか、多くの人が神様を信じるようになったとか、そういう締めくくり方がされるのです。
ナタナエルのエピソードもそうでした。イエス様が言われた「もっと偉大なこと」とは、天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするという現象です。イエス様を通して、私たちの住む地上と神様のおられる天とがつながり、神様の御心がこの地上でより一層行われるようになるということがここで言われています。それは、人類救済史上の重大な出来事、奇跡が起きてすごいねとかを超える、大きな意味を持つ出来事でした。
イエス様はガリラヤのナザレから来て弟子を招かれました。ナタナエルを含む多くの人々は、ナザレという地を取るに足りない場所と評価していたでしょう。しかしそのような偏見は実際のイエス様と出会い、その奇跡を体験することで打ち破られます。このようにイエス様は力強く私たちを信じさせ、天と地とをつなぐ存在として私たちを導いてくださるのです。イエス様は偏見を超えていかれるお方、そして単に奇跡を起こすだけでなく、奇跡を通して神様の偉大さを私たちに教えてくださるお方です。
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