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さまざまな戒め

2023年2月12日 顕現後第六主日

マタイによる福音書5章21~37節


福音書  マタイ 5:21~37 (新7)

21「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。 22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。 23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、 24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。 25あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。 26はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

27「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 28しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 29もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

31「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。 32しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

33「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。 34しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 35地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 36また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。 37あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」


先週に引き続きマタイ福音書の山上の説教を読んでいきます。イエス様は前回の日課で、律法について「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と言っておられました。それに続く今日の日課では、さまざまな律法についてイエス様が弟子たちと人々に教えておられます。具体的には「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「離縁してはならない」「誓ってはならない」という戒めについてイエス様がご自分の解釈を語っておられる場面です。


まずは一つ目の「腹を立ててはならない」を例に取ります。イエス様は「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」と言って話し始められます。十戒には「殺してはならない」という掟が存在しますし、レビ記24章には「人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。」とあり、殺人に対して刑罰が下るということが言われています。殺人という「行動」に対して刑罰が下るというのは私たちも納得しやすいところです。


しかしイエス様は「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と言われます。さらに「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」とまで言われるのです。イエス様がこれを言われるのは、「腹を立てる=怒り」という内面が、殺人という行動のもとになるからです。殺人という行動を起こしていなかったとしても、そのもとになる怒りを持った時点でそれは罪である、だから自分は罪を犯していないなどと思ってはならない、ということをイエス様は言われています。


私たちはキリスト教を知らなければ、殺人や窃盗という極端な行動をしない限り自分は罪を犯していないと考えていたでしょう。ユダヤの社会も同じように行為に重きを置く社会でしたから、イエス様と同時代の人々は、罪というのはその人の行いに対して発生するものだと考えていました。しかしイエス様は、罪と言うのは誰もが持っているものだと指摘します。それぞれの人が心の中をよく見て、自分の罪を自覚して、神様にゆるしていただかなければならないということが言われているのです。


二つ目の「姦淫してはならない」も同じです。十戒には「姦淫するな」「隣人の妻を欲してはならない」とあります。確かに「姦淫する」「隣人の妻を欲する」という行為が罪に当たるというのは納得しやすいところです。しかしここでもイエス様は戒めの内容を強めて「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と言われます。怒りが殺人のもととなるのと同様に、みだらな思いは姦淫のもとになります。そのような心の中にまで目を向けた時に、自分は罪を犯していないと言い切れる人は一人もいないということが言われています。


三つ目の「離縁してはならない」と四つ目の「誓ってはならない」も同じです。離縁状に関する律法は女性の社会的立場が弱かった古代世界において女性を保護するために作られたもので、男性の気まぐれで離縁が行われてはいけない(離縁状もなしに軽々しく離縁してはいけない)ということを明らかにしたものです。イエス様の発言の背景には、次第に律法本来の目的が失われ、離縁状が乱発されていた(離縁状さえ書けば離縁してもいい)という状況があったと言われています。イエス様は「離縁状さえ書けば離縁してもいい」というその心のあり方がすでに罪である(結婚制度と妻を尊重していない)と指摘しています。


四つ目の教えは誓願についてです。誓願とは神の前で「もし神様が○○してくださったら私は△△します」あるいは「私は△△しますので神様どうか○○してください」と約束することを指します。こういうことはよく行われていたようで、例えば士師記11章には「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。」と誓願をした勇者エフタの例が見られます。神様は彼に勝利を与え、彼は誓願のとおり、迎えに出て来た一人娘を泣く泣く神様に捧げることになりました。


一度誓願したこと必ず果たさなければならないということが大前提ですが、律法には同時に「誓願を中止した場合は罪を負わない」(申命記23:24)とも書かれていて、実際には色々と逃げ道も存在したようです。それに対してイエス様は「一切誓いを立ててはならない」と言われます。守れない約束をするくらいなら最初から約束なんかするなというわけです。


そもそも私たちは何があっても絶対に約束を守れるような強くて一貫した存在ではありません。私たちは天にかけて誓うと言ったりするわけですが、天にかけて誓ったところで天は神様の所有物です。地にかけて誓ったところで地もまた神様の所有物です。イエス様はまた「あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。」とも言われます。自分の体というのは私たちにとって一番自分の所有物らしいものです。しかし自分の体にかけて誓っても、結局は我々の体も神様によって造られた神様の所有物です。人間は髪の毛の一本でさえも自分の意志に従って変えることができないのです。結局私たちが最後に頼みとするところは自分の意志の力ではなくて神様の力なのです。


イエス様はこれら四つの戒めを通して「人はみな罪を犯していること」「だから自分の義ではなく神様の義を求めなければならないこと」を教えておられます。イエス様がこのような教えをされなかったら、イエス様の話を聞いていた人々もそして私たちも「自分は罪人ではない、だって殺人も姦淫もしていないから。私は正しい(=義である)。」と思って生きていたでしょう。しかしイエス様は私たちのそのような態度に厳しい目を向けておられます。殺人や姦淫と言う大胆な行為をしていなくても、心の中にやましいことはありませんか?と問いかけておられるわけです。なぜなら、神様は私たちの心の中にあるどんな小さな悪いこともご覧になっておられるからです。


イエス様はこのことを私たちが罪の意識にさいなまれてしょんぼりと生きていけばいいと思って言われたわけではありません。友達と喧嘩してもいけないし魅力的な人にときめいてもいけないならば、私たちは家に引きこもっているしかありません。罪を犯したくないから誰とも会わない、離婚したくないから結婚しない、そういうことになってきます。しかし神様は私たちをこの社会の中で関わり合って共に生きる存在として創造されたわけですから、そういうことが言いたいわけではないはずです。


そうであるとすれば、イエス様が重んじておられるのは、いったん自分は正しいという思い込みをやめて、たとえ小さくても心の中にやましいことがあれば反省して、神様にゆるしを願うという姿勢で生きていくことです。そういう姿勢で人と関わることです。なぜならそれが「八つの幸い」で言われていた「義に飢え渇く者は幸いである」ということだからです。

繰り返しになりますが、義(=神様の前での正しさ)に飢え渇く状態というのは自分の「正しくなさ」を認めている状態です。人間は自分が不完全であることを認めた時、神様の正しさや完全さに気づいてそれを求めることができます。「自分は正しい、相手が間違っている」という姿勢で生きていくよりも、不完全な自分を認めて、神様の正しさを基準にするほうが幸せな人生になるということが言われています。そして律法はそのために存在するということをイエス様は今日の箇所で教えておられるのです。


イエス様は今日の聖書の物語でさまざまな戒めについて教えられました。それを通して私たちは、神様が私たちのどんな小さな罪もご覧になっているということ、どんな人にも罪の自覚が必要なことを学びました。イエス様の教えに従って、私たちはいつも自分の心を振り返り、神様の前で反省をしたいと思います。それと同時に、私たちの正しくなさをご自分の正しさで満たしてくださっている神様に感謝して、さまざまな人と共にこの社会で暮らしていきたいと思います。

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