本日は信徒説教者の田村圭太さんに説教をしていただきました。 福音書 マタイ 20: 1~16 (新38) 1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 11それで、受け取ると、主人に不平を言った。 12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」 本日の福音書の日課である箇所には、先週の日課の箇所と同じく「天の国(すなわち、神さまの支配が及ぶ神の国)とはどういうところか」ということを弟子たちに解き明かすたとえ話が記されています。 たとえ話に登場する主人は、夜明けごろ労働者を、一日につき1デナリオン支払う約束でぶどう園へ送り出しました。主人は同じ日の朝9時、12時、午後3時、そして5時にも、何もしないで広場に立っている人々を同じように、一日につき1デナリオン支払う約束でぶどう園へ送り出しました。 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言いました。そこで、監督は労働者たち一人ひとりに約束どおり1デナリオンずつ支払いました。 やがて、夜明けごろに雇われた人たちが「5時ごろ来た人たちよりも、もっと多くもらえるだろう」と思ってやって来ます。しかし、彼らに支払われた金額も1デナリオンずつでした。彼らは賃金を受け取った後、主人に不平を言いました、「最後に来たこの連中は一時間しか働かなかったのに、まる一日暑い中を辛抱して働いたわたしたちを、この連中と同じ扱いにするのか。」 人々が労働者としてぶどう園に送られたとき、主人が彼らに約束した賃金は「一日につき1デナリオン」でした。だから、主人は彼ら一人ひとりに約束どおり1デナリオンずつ支払います。主人は何も間違ったことをしていません。しかし、夜明けごろに雇われた人たちはこの約束を忘れています。そして、働いた時間が長い分だけ相応の賃金が支払われるべきだ、少なくとも5時から働いた人たちよりも多い賃金が支払われるべきだ、と考えます。 今のこの世の中でも、賃金は働いた時間さらには年数の長短に比例して、あるいは成果主義といって生み出した成果の良し悪しに比例して支払われるという考え方が、当然のようになっています。今日の私たちから見れば、労働時間に関係なくすべての労働者に同じ賃金を支払うというシステムはありえないものといえます。 しかし、主人は彼らに答えて言います、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」 主人はぶどう園に最初に来た人にも最後に来た人にも働いた時間数に関係なく、すべて同じように平等に支払いたいというのです。つまり、主人には“働いた時間数に比例した賃金を支払う”という発想が最初からありません。働いた時間数や年数、生産性や効率の高さ等を労働者に求めているのではない、自分の利益を追求するために人々を雇っているのではないのです。 さらには、主人は「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」と、開き直ったようにも取れる言葉を続けます。「わたしの気前のよさをねたむのか」という言葉には、自らを客観視していることがわかります。このような言葉は、財産を有り余るほど豊かに持っている人が発言してこそ現実味があるようにも思えます。 さて、イエスさまはこのたとえ話を、弟子たちに天の国を悟らせる話として語られました。 ぶどう園の主人は神さま、労働者は私たち人間をたとえていることがわかります。つまり、私たちは神さまのために働く者として召されているのです。 ぶどう園の主人は労働者に多くの収益を上げることを求めていない、そのようなことよりも人々をより多く雇いたい、多くの人々に賃金を支払いたいと思っています。ここに、神さまが私たちを救いに招いておられる姿が表れています。 つまり、神さまはより多くの人々をご自身が支配される天の国に招きたい、そこで多くの人々に
神さまは一人でも多くの人が罪から救われて、天の国の一員になってほしい、と願っておられます。このことから、たとえ話に登場する人々が主人からぶどう園に送られる時刻は、私たちが神さまに救われた時期をたとえているということができます。ぶどう園へ夜明けごろに送られた人は子供のころに神さまへ導かれた人、5時ごろ送られた人は老齢になってから神さまへ導かれた人といえるでしょうか。 しかし、導かれた時期に関係なく、神さまは私たち一人ひとりを等しく愛しておられ、恵みを与えてくださるのです。 本日の日課の7節には、5時ごろに何もせず立っていた人たちがその理由を主人から尋ねられたとき、彼らは「だれも雇ってくれないのです」と答えました。彼らはぶどう園に送られ、一時間後には1デナリオンの賃金を受け取ります。誰からも雇われず、悲しみのうちにあった本人たちはもちろん、主人も「最後になって雇われた。本当に良かった。さあ、賃金を与えよう」と思って、両者がともに、本当に喜んだと思うのです。主人は5時ごろ来た人(つまり、老齢になって神さまに導かれた人々)のことを、夜明けごろに来た人(つまり、幼いころから神さまに導かれている人)以上に喜んだとも思えるのです。 そのように考えれば、その喜びを表現するために、ぶどう園に最後にやってきた人から順番に賃金を等しく支払われたことが理解できるように思います。
主人がすべての労働者に等しく支払われた1デナリオンの賃金は、神さまにつながる私たち一人ひとり神さまからいただく愛と恵み、そして永遠の命をたとえている、ということができます。
私たちは自らの自我や欲求に基づいて、「長い間あなたにつながっているのだから、それ相応の報いが欲しい」と思ってしまうかもしれません。
しかし、神さまは、私たち一人ひとりがご自身に導かれ、受け入れ、信仰を告白してきた期間に関係なく、私たちを等しく愛しておられます。この世と私たちを創造された神さまですから、目には見えなくても、愛と恵みを豊かに、その意味で妬ましいほどに“気前よく”私たちに注いでくださいます。
ぶどう園に送られた、つまり神さまに導かれた時期に関係なく、私たちは一人ひとりが愛と恵み、そして永遠の命を神さまからいただいています。人間の目から見れば不公平に思えても、神さまの目から見れば実に理にかなったことなのです。
神さまは「すべての人に、もちろんあなたにもぶどう園に来てほしい。そして、あなたに1デナリオンの賃金を支払ってやりたいのだ」と言い続けておられます。その惜しみなく与えられる恵みを忘れず、恵みに感謝しながら、新たな一週間を歩んでいきたいと思います。
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