2020年5月3日 復活節第4主日
ヨハネによる福音書10章1節~10節
1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 2門から入る者が羊飼いである。 3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
今日の聖書の箇所では、イエス様がご自分を「羊の門」にたとえておられます。聖書を開いてみて、今日の日課の区切りがやや中途半端であると感じた方もおられるかもしれません。私たちが長年使用してきた「共通日課」では、1節から16節までを一つの日課(その日に読まれる聖書箇所)としていました。しかし今年から使用している「改訂共通日課」は1節から10節を一つの日課とし、続く11節から18節は実は別の年に読まれることになっています。これはなぜかというと、単純に、10節までのお話と11節以降のお話が、よく読むと違うお話であるからです。多くの聖書学者たちは、1節~10節のたとえ話と11節~18節のたとえ話はもともと別の言い伝えで、「羊」というモチーフの共通性から後代になって隣同士に置かれるようになったと解釈しています。
それではこの二つのたとえ話の違いが何かというと、今日の聖書の箇所ではイエス様はご自分を「羊の門」にたとえておられるのに対して、11節以下ではイエス様はご自分を「羊飼い」にたとえておられるということです。まあ、それだけと言えばそれだけの話なのですが、しかしながらこの二つを一度に聞くと、なんとなく内容がごちゃまぜになって、全体的に、今日は「よい羊飼い」の話だったかな(「羊の門」の話を忘れてる)というような具合になったりするので、日課が二つに別れていることには、やはりそれなりに意味があると言えるでしょう。またこの二つのたとえ話は語り口においても異なっていて、11節以下の「羊飼い」のたとえが「命」「父なる神」「永遠」という非常に抽象度の高いテーマに読者を導くのに対して、今日の「羊の門」のたとえはもっと簡潔に、救いに至る唯一の扉としてのイエスの姿を私たちに示しています。
「門」とはなんでしょうか。門は、入り口であり出口です。門を通って私たちは壁の向こう側と行き来をすることができます。聖書の時代、たいていの町は壁で囲まれていました。壁に開いた門は人々の集会所でもあり、夜になるとその門は閉められて人々を敵の襲来から守りました。羊もまた囲いの中で飼育されました。昼間羊たちは放牧されていますが、羊飼いたちは夜になると石を積み上げた塀の中に羊を導き、その囲いの中で羊たちを休ませました。羊を野獣から守るためです。その囲いには門があり、門には門番が置かれました。羊を盗みに来る人がいるからです。門番が門を開くのは羊飼いに対してのみ、本当に羊を愛し、世話をする人に対してだけです。ですから羊たちは門の中にいる間、守られています。そして門が開き、羊飼いに導かれて門を出ると、牧草を見つけて生きる糧(かて)を得ることができるのです。羊の群れは、門によって守られ、門を通る羊飼いに導かれ、門を出入りして命を養われます。
イエス様はご自分がこの「門」であると言われます。私たちは、イエス様という門によって守られ、イエス様という門を通って救いをいただくからです。この門を通らずして私たちに近づく者はみな盗人だとイエス様は言われます。それは私たちを滅ぼすものです。だから、私たちはイエス様という門を通ってくる良いものと、門を通らないで近づいてくる悪いものを区別するのだとこの聖書の箇所は語っています。
では、自分はどうだろうかと、まじめなみなさんはきっと思われるのではないでしょうか。自分は本当にその区別ができているだろうかと。それなりの年月を生きていれば、いかにも善のような悪がそこかしこにあって、真実とそうじゃないものの見分けは基本的にはつかない、ということがわかってくるからです。しかし聖書は「羊は羊飼いの声を聞き分ける」とはっきり記しています。あなたはイエス様を通して呼びかけられる声を必ず聞き分けることができる、というのです。神があなたの名前を呼ぶとき、あなたはそれに付いて行くことができるというのです。それは、私たちの努力と根性によるものではなくて、聖書に預言されていたこと、私たちと神との関係は本来そのように創られているということです。
イザヤ書43章1節は「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」と語ります。ヤコブに限らずとも人はみな、その存在の初めから、神によって名前を呼ばれ、神によって知られているのです。だから、私たちもまた、存在の深いところで神を知っています。(それを近現代の手法で証明することはできませんが、教会の長い伝統は、証明できないことがすなわちなかったことにはならない、ということを教えています。)ですから私たちがこのたとえ話から受け取るのは、自分がこの呼びかけに応えられるだろうかという不安や恐れではなくて、神は必ず私にわかるように語り掛けてくださるという信頼です。羊の門としてのイエス様が、神を通ってくるものとそうでないものを、私たちに示してくださるという安心です。
私たちは今日もイエス様という門によって守られています。そしてイエス様という門を通って救いをいただいています。イエス様という門を通った羊飼いが呼びかけるとき、私たちはきっとその声を聞き分けることができます。それは、あなたという存在が初めから神によって知られているからです。そのことに安心してこの一日も過ごしてまいりましょう。
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