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永遠の命

2021年11月7日 全聖徒主日 召天者記念礼拝

ヨハネによる福音書11章32~44節


福音書  ヨハネ11:32~44 (新189)

11:32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。 33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 35イエスは涙を流された。 36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

イエス、ラザロを生き返らせる

38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。 39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。


今日は全聖徒主日です。召天者記念礼拝にようこそお越しくださいました。全聖徒主日の「全聖徒」とは、すべての信仰者という意味ですが、今日みなさんが集われたのは、信仰の先輩方、特に先に天に召されたご家族やご友人を記念するためであると思います。亡くなった方を思い、その方が天の御国(みくに)で安らかに憩われていることを祈り、そして私たちが生きているこの命の行く先に思いを馳せるのが今日という日であるのです。


聖書は死後の世界について、あまり多くのことを語りません。聖書の一番はじめの部分、創世記では「人は土の塵(ちり)から造られてやがて塵に返る」と記されています。人は有限の存在であり、やがては塵に返るだけ、というひとつの真理です。しかし聖書は同時に、死後に私たちを待つ、あらゆる希望と慰めについても語っています。それこそが聖書の言うところの「永遠の命」です。


今日の第一の朗読、イザヤ書では、神様が死を永久に滅ぼしてくださったと語られています。第二の朗読、ヨハネの黙示録は「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と語ります。もちろん肉体の死は訪れますが、その先に待っているのは無や終りではないというのがキリスト教の信仰です。そういうものの代わりに、地上から天国までずっとつづく「永遠の命」が与えられていると私たちは信じています。


そして今日の福音書、ヨハネ福音書は、その死を超えた永遠の命は、イエス様を信じることで与えられるものだということを語っています。永遠の命というすばらしいプレゼントは、神様によって備えられ、イエス様を通して私たちに届けられるのです。


先ほどお読みした福音書の物語は、イエス様がかねてから親しくしていたラザロという人を生き返らせるというお話でした。お話はイエス様がラザロの墓に行かれるところから始まります。イエス様はラザロが病気であるという連絡を受けつつも、とうとう臨終に間に合わず、こうして墓を訪ねることになったのです。


イエス様の姿を見てラザロの姉妹マルタは足もとにひれ伏します。そして「もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。イエス様が人々の病気を癒されたという話は方々で有名になっていましたから、彼女もそれを期待していたのでしょう。しかし死んでしまったのではもう遅い、死に対してはイエス様でさえも無力だと彼女は思っていました。


しかしイエス様が死に対して無力であるというのは、真実ではありませんでした。イエス様は迷わずラザロの墓に行き、父なる神様に祈ります。そしてイエス様が「ラザロ、出てきなさい」と大きな声で言われると、なんと死んだはずのラザロが墓から出てきたのです。死んだ人が生き返るという驚くべき奇跡です。


このすばらしい奇跡はしかし、イエス様によって私たちが不老不死になることを意味しているわけではありません。この時復活したラザロも寿命が来れば死ぬのです。そうではなくて、イエス様は「あなた(父なる神様)がわたしをお遣わしになったことを彼らに信じさせるために」この奇跡を行うのだと言われます。イエス様がラザロを生き返らせたのは、イエス様が神の子であって、天地のすべて、生と死を支配する力をお持ちの方から遣わされたということが明らかになるためでした。


こうして聖書は、イエス様が私たちの命を司っておられるということを語ります。イエス様は生と死の間を超えることができるお方であり、死んでいたラザロでさえも復活させることができるお方です。私たちにとって生と死の間には大きな隔たりがあるように思えますが、イエス様から見ればそうではありません。天国にあっても地上にあっても、命はつながっていて、天国の命も地上の命も、すべてイエス様によって守られているからです。


聖書の約束する永遠の命はこの地上で永遠に生き続けるということとは違います。そうではなくて、生きている時も、肉体が滅びた後も、変わらずに神様が見守ってくださるということです。今日改めて聖書に約束されている永遠の命を思い起こし、天国での再会と、この地上を旅立った後に訪れる未来に期待しようと思います。命は見えないところでつながっていて、私たちがどこへ行こうとも神様は私たちと共にいてくださるのです。


もちろんそうは言っても、私たちは亡くなった人をしのんでさみしくなることもあろうかと思います。今日の物語でイエス様はラザロが死んで涙を流されたと書かれています。神の子であるイエス様であっても、親しくしていた人が天に召されれば涙を流すのです。私たちが悲しみ、苦しむのも当然のことだろうと思います。悲しみはそのままに、しかしイエス様が与えてくださる永遠の命を少しでも信じられたらと願っています。

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