2020年6月21日 聖霊降臨後第3主日
マタイによる福音書10章24節~10章39節
24弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。 25弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」
26「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。 27わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。 28体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 29二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 30あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。 31だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
32「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。 33しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」
34「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 35わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
36こうして、自分の家族の者が敵となる。
37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。 38また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
先週に引き続き、イエス様は弟子たちを宣教に送り出そうとしておられます。先週の日課では、イエス様は弟子たちに「何も持って行ってはならない」ということを命じられました。弟子たちが、これから出会う人と、神様とに助けられて働くためです。今日の日課ではイエス様は「恐れてはならない」ということを教えておられます。人々を恐れることなく、神についてイエス様について、本当のことを告げ知らせなさいと命じておられるのです。
そもそも信仰の歴史は、迫害の歴史でありました。旧約聖書の日課では預言者エレミヤが迫害を受けて嘆いている様子が描かれています。神様の言葉を伝えた預言者は、その多くが迫害を受けました。預言者たちは人々に、裁きを予告し、悔い改めを求めたからです。誰もそんな話は聞きたくないので、預言者たちは人々に非難されて迫害されました。聖書の時代も、イエス様を信じる人たちは迫害されました。弱者の味方であったイエス様の教えは、当時の宗教的指導者や政治家に支持されなかったからです。その後も教会は多くの殉教者を生み、この日本でもキリシタンが弾圧を受けて多くの人が命を落としました。今もキリスト教徒が迫害されている国や地域はたくさんあります。イエス様の「恐れてはならない」という教えは、信じるということが大きな「恐れ」を伴っていたことの証でもあるのです。
イエス様はまた、信仰がもたらす分裂についても語ります。信じることで、自分の家族の者が敵となるというのです。キリスト教は決して、家族の中が悪くなることを積極的に目指している宗教ではありません。聖書を見ても、使徒たちの中には兄弟でイエス様の弟子になった者もいましたし、イエス様の母マリアはイエス様の十字架の場面まで付き従っていました。しかしながら、信仰を持つことで分裂が避けられなくなるということもあり得ます。例えば、創世記19章においてロトの家族は分裂を経験します。ロトは神のお告げを信じなかった婿や娘や妻を、結果的に失うことになるのです。家族であっても、信じるか信じないか、それぞれ別の選択をすることがありうるということが、聖書には隠さずに語られています。
今の日本でも、自分の信仰を言い表すというのはそれなりに勇気がいることです。例えば私は美容院とかで「何のお仕事されてるんですか」と聞かれると「会社員です」と答えています。(よくないですね、はい…。)それから実家では教会の話はしません。母と妹はクリスチャンではないからです。(これは、もしかしたらわかってくださる方がいらっしゃるのではないでしょうか…。)でもそういうとっさの判断、ついイエス様について知らないふりをしちゃう、というのは起こりうることです。イエス様は「人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表しなさい」とおっしゃいます。しかし信仰を言い表すというのは、思わぬところで人と人との間に分裂や偏見を生むことがあるということを、私たちは心のどこかで知っています。それを避けようとせず進んでいくということには大きな痛みが伴うのです。
信じるということの恐れや痛み。それを分かったうえで、それでも、イエス様は「恐れるな」と言われます。必ず神様が最後まで守ってくださるから、恐れる必要はないのだというのです。そればかりではなく、言うべきこと、行くべきところ、なすべきことは、すべて神様が与えてくださるから、ただあなたはそれに信頼して出かけて行きなさいとイエス様は言われます。小さな雀を養ってくださる神、あなたの髪の毛の一本一本を数えることがお出来になる神が、あなたのすべてを知って、あなたを今日も守ってくださるということが語られています。「一アサリオンで売られている二羽の雀の命でさえ、神は管理しておられる」とイエス様はおっしゃいます。一アサリオンは300円くらいですから、人間がとるに足らないと思って売り買いしているその命でさえ神様は守ってくださっているということです。その同じ神が、あなたの命と信仰を日々守り導いてくださっています。あなたの体も魂も、すべては神のものであり、どんな思いも行いも、あなたの内にあって神に知られていないものはないのです。
神様を信じるか信じないか、信仰を言い表すか知らないふりをするか、ということは、時に私たちに恐れを生じさせ、私たちを分断してしまうことがあります。イエス様はその恐れをご存じです。だからこそ私たちに「恐れるな」と語りかけておられます。イエス様は弟子たちに、恐れの中でも神に信頼し、神にゆだねることを教えられました。私たちの信仰生活もまた、恐れつつも神様に支えられて歩む道のりです。もちろんわざわざ自分と違う信仰を非難する必要はありませんし、ことさらに分裂を強調する必要もありません。しかし、イエス様について知らないふりをしたくないという気持ちを持ち続けたまま、神様に信頼して歩んでいきたいと思います。
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